慈雨の音―流転の海 第六部―
2,310円(税込)
発売日:2011/08/31
- 書籍
敗戦の焼け野原から十四年。日本と日本人はここまで復興した――。
インタビュー/対談/エッセイ
波 2011年9月号より [宮本 輝『慈雨の音―流転の海 第六部―』刊行記念特集] 【インタビュー】昭和の戦後を生きた人々の、巨大な人間劇場。
宮本輝さんの自伝的大河小説「流転の海」シリーズ待望の第六部『慈雨の音』が刊行されます。物語の舞台は、敗戦から復興して14年、皇太子ご成婚や日米安保、東京オリンピックのニュースで賑わう昭和34年の大阪。豪胆で情に厚い松坂熊吾の悪戦苦闘を中心に、日本と日本人のドラマを描く宮本さんに話を伺いました。 |
「慈雨」が意味するもの
――「流転の海」シリーズは、いつもタイトルに雄大な自然が読み込まれています。今回の『慈雨の音』というのはいつ頃、どんなふうにして考えられたのですか。
宮本 この題が決まるのにずいぶん時間がかかりましてね。今回の舞台となっている昭和三十年代の半ばには、日本の経済も、かなり好転してきているんですよ。そこは、第五部の『花の回廊』や、その前の『天の夜曲』の時代と違うところです。経済的な余裕というものは、人間の心を他者に向けるのかもしれません。本当に貧乏な時には、他人の苦労に同情はできるけれども、救ってあげることはできない。それが、なんとか支えるということはできる、ぐらいの経済状況に向かって松坂家の人々が進んでいくんです。
その時、この一家の三人が本来持っていた、でも持っていても出すことができなかった、他人への慈しみの心が起きあがってくる。息子の伸仁が、傷ついた鳩や子犬という、人間の支え無しでは生きていけないものたちの世話に懸命になりますが、それもひとつの象徴になっているかもしれません。思春期を迎えて難しい年頃になっていくその伸仁を守るために、熊吾や房江もさまざまに心を尽す。それに応えるように、体の弱かった伸仁も丈夫になっていく。そうしたものが全部同時に進んでいったあの時代を振り返ると、そこにあったのは、慈しみの心だった、それが一家の周りに降り注いでいた、と思えるんです。
もうひとつ、親父から聞いた言葉があるんです。「あなたが春の風のように微笑むならば、私は夏の雨となって訪れましょう」というものなんですが。もう晩年になった親父が僕に、「なあ、中国にこんなことわざがあるぞ」と教えてくれたんです。「だけどそれがわしら夫婦は、あるときからできなくなった」と……。そんなふうなことを考え、結局『慈雨の音』に落ち着いたんです。
余部鉄橋という原風景
――今回は山陰本線に架かった余部鉄橋が非常に重要な場所として何度も登場します。まず、自分の遺灰をこの鉄橋の上から撒いてほしいという浦辺ヨネの遺言を果たそうと、みんなであの鉄橋を歩いて渡っていきます。
宮本 あそこは実話です。余部鉄橋というのは、下は千尋の谷底のように見える、とんでもない高さにあって、風も凄い。親父は「わしゃ、高いとこはアカンのじゃ」とビビって(笑)。そしたら、おふくろがスタスタッと歩いていってね、「すごいやっちゃな、あいつは」と感心していました。
――そのあと、伸仁は、自分が介抱して育てた鳩を放しに、再びこの鉄橋に登ります。
宮本 あの鳩は、もともと病気を持っていた。それを僕に押し付けた連中がいるんですが、絶対その彼らの手の届かないところに放してやろうと考えたんですね。あの余部鉄橋というのは、大阪の川のほとり、それから雪の富山、そして尼崎の蘭月ビルと同じく、僕の中の原風景の一つです。
能の楽しみ
――今回、熊吾が能の「井筒」を見る、非常に美しい場面が出てきます。
宮本 お能というのは、庶民が普通に楽しむものだったんですよ。夏になると開襟シャツ一枚に、汚れたパナマ帽を抱えたおじさんがジーッと食い入るように見てたりね。
京都の能楽堂の近くに、店構えは地味な、でもおいしいものを出す蕎麦屋さんがあったんです。能が終ってからそこでお蕎麦やだし巻き卵を頼んで、お酒を一杯。それが庶民の楽しみでもあったわけです。
――宮本さんご自身もお父さんに連れられて見にいらしたわけですね。
宮本 シテ方がスッと動きだす瞬間が好きでしたね。人間がどうしてあんなにピタッと止まれるんだろう、という静寂のあとに、突然にふっと歩きだす。それが不思議でね。そこが見たくて、「能に行こうよ」って親父にねだったことがあります。一方では、テレビで『ララミー牧場』や『ローハイド』を見てたんですが。
「流転の海」シリーズの本当の主人公は?
――この時期、熊吾のモータープール事業が波に乗っていく、そして中学生になった伸仁は思春期を迎える、その二人を、房江は実に足が地についた見方で見つめています。
宮本 「流転の海」では、熊吾が小説全体の主人公で、グイグイ引っ張っているように見えるかもしれませんが、実はそうではないんですよね。妻の房江が、車の両輪のように動いていないと、「流転の海」という小説は動かない。房江が周りの人たちを見る目、考え方というのは非常に重要です。だけど、この小説全体を考えると、その松坂熊吾と房江という夫婦、それから息子の伸仁、この三人も、いわば狂言回しなんですよ。本当の主人公たちは、ここで書かれている、戦後の昭和という時代であり、そして、この熊吾たちと縁したさまざまな無名の人たちなんです。ですから、この小説には膨大な数の人物が出てきますが、その一人一人の運命が大切なんです。新しく登場してくる人物もいれば、死んでいく人物もいる。今回も、こいつはもうちょっと生かしておきたかった、という男が出てきますが……。
――読者にとってはおなじみの人物が何人も去り、また死んでいきますね。
宮本 その意味では、この『慈雨の音』で、これまでの流れが一区切りついているのかもしれません。一方、蘖のように新しい登場人物が出てきています。作者である僕は、その人たち全部の始末をつけなくてはいけないと思うんです。起承転結をつけるというのではなくて、その人たちがどのような有為転変の運命の中で生きたか、それを読者に見届けてもらいたいと思っています。
戦後闇市からの十四年という年月
――去っていく人々のなかには、北朝鮮に向った人たちもいました。彼らが乗った夜汽車を、夜の闇のなかで伸仁たちが鯉のぼりを振って見送る場面が印象に残ります。
宮本 あの朝鮮帰還には、もちろん背後にいろんな政治が蠢いていたわけです。しかし、僕はそういうところを書くために小説を書いているのではない。背後でなにがどう蠢いていようが、民衆は、とにかく少しでもよりよく生き抜いていこうとしているわけです。それは無名の民衆が自分の運命をどう生きたかという問題であって、それがこの小説の一番大きなテーマです。
戦後の闇市から始まった第一部からこの第六部まで、十四年が過ぎているわけですね。この小説を、第一部『流転の海』から『地の星』、『血脈の火』、『天の夜曲』、『花の回廊』、そして今回の第六部『慈雨の音』と、もし続けて読んでくださる方がいらっしゃるとすれば、その十四年という年月をかけて、日本人が巨大な劇場で演じてきたドラマというものを、じっくりと見てもらえるんじゃないかと思っています。
「流転の海」のこれから
――次の第七部は、「新潮」の来年の新年号から連載開始予定ですね。いまから非常に楽しみです。
宮本 僕は昭和二十二年生まれで、「全共闘世代」なんて言われますけど、当時、大学に進学できた者なんてほんの一握りだったんです。テレビに映る全共闘の映像を見ていると、あのころの若者はあれがすべてだったように思われるかもしれませんが、あの背後には、集団就職列車で上野駅に下り、あるいは大阪駅に下りた、はるかに大勢の少年少女たち、青年たちがいて、高度経済成長の下支えをしていたわけです。その彼らがどんな人生を送ったかということが、極めて大事な問題としてあるんですよ。これから伸仁の周りに、その子たちも出てきます。
このあと、小説としては非常に難しい段階に入りますね、熊吾も房江も、それぞれが辛く厳しい時代を迎えていきます。そのカタストロフィーを、いかにカタルシスとして描くか、それが大きな問題ですね。でも書き手としては、どうしてもこの峠を越えなきゃいけない。あと三巻は必要かもしれません。いま僕は六十四歳ですから、七十歳になるまでに書き終えたいと思っています。
著者プロフィール
宮本輝
ミヤモト・テル
1947(昭和22)年、兵庫県神戸市生れ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務等を経て、1977年「泥の河」で太宰治賞を、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。その後、結核のため2年ほどの療養生活を送るが、回復後、旺盛な執筆活動をすすめる。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『流転の海』『優駿』(吉川英治文学賞)『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)『にぎやかな天地』『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)『水のかたち』『田園発 港行き自転車』等著書多数。2010 (平成22)年、紫綬褒章受章。2018年、37年の時を経て「流転の海」シリーズ全九部(毎日芸術賞)を完結させた。
関連書籍
判型違い(文庫)
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