希望という名の絶望―医療現場から平成ニッポンを診断する―
1,540円(税込)
発売日:2011/06/17
- 書籍
- 電子書籍あり
気鋭のがん臨床医が炙り出す現代日本の病巣――。大震災後も変わらぬ真理とは?
「頑張れとばかり言う奴は馬鹿である」「冷静な対応とはなんだ」「議論を尽くすはどこまでか」……現役医師が日々綴った言葉は、大震災の“黙示録”とも言える。「ここに書いてあることは、多くの患者さんの希望と絶望、理性と感情、運命、哀歓などが私の口を借りてこの世に出ようとしたのかもしれない」。
目次
はじめに
第一章 希望という名の絶望
死ぬまで頑張れ!?
希望という名の絶望
人を殺す理由、あるいは死なせる基準
希望という名の絶望
人を殺す理由、あるいは死なせる基準
第二章 タダが人間を堕落させる
偽善の「説明責任」
「冷静な対応」ってなんだ
聖人君子が国を滅ぼす
「議論を尽くす」はどこまでか
未熟と老耄
情報メタボ
「すばらしい世界」のガス抜き
タダが人間を堕落させる
そんなに悪いか、バクチ打ち
「冷静な対応」ってなんだ
聖人君子が国を滅ぼす
「議論を尽くす」はどこまでか
未熟と老耄
情報メタボ
「すばらしい世界」のガス抜き
タダが人間を堕落させる
そんなに悪いか、バクチ打ち
第三章 人生はなんのため?
試験勉強なんのため?
本当に「教養」は役に立つのか
天国と地獄の「線引き」
留学しない若者たち
なんのために学ぶか
仕事はなんのためか
本当に「教養」は役に立つのか
天国と地獄の「線引き」
留学しない若者たち
なんのために学ぶか
仕事はなんのためか
書誌情報
読み仮名 | キボウトイウナノゼツボウイリョウゲンバカラヘイセイニッポンヲシンダンスル |
---|---|
雑誌から生まれた本 | 新潮45から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 240ページ |
ISBN | 978-4-10-329941-7 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | 評論・文学研究、ノンフィクション |
定価 | 1,540円 |
電子書籍 価格 | 1,232円 |
電子書籍 配信開始日 | 2011/12/02 |
書評
波 2011年7月号より 真面目に仕事をする「悪代官」の常識
里見清一先生は医者である。肺癌が専門の腕のいい内科医である。
先生は、昨今病院で流行している(役所の指導?)「患者さま」という呼び方を前作『偽善の医療』(新潮新書)で、とても怒っておられた。
そりゃ怒るだろう。患者だって不快を超えて不安になる。ところが最近は「病客様」という病院があると、先生の新刊『希望という名の絶望』を読んで知った。驚くというより寒くなる。
「人情は“倫理”や規則よりも上位である」
前作で先生はこんな言葉をしるされた。お菓子でも缶コーヒーでも、ときには金一封でも患者がくれるとしたら、患者側にいいことがあるわけではないが、それはもらうべきだ。ただし、「恐縮して、また喜んで」。患者との関係をつくることが先生の「治療」の根幹である以上、とにかく患者に「こいつは自分の方を向いている」と思ってくれるよう「秘術を尽くす」のだ。
どうしようもない進行癌に対しては、「なにもしない」というつらい選択肢もある。「この最後の時に患者が私の忠告ないし勧告を聞き入れてくれるための関係作りの時間稼ぎみたいなものかも知れない」。こちらは『希望という名の絶望』にある。
毎月、患者を兼ねた友人、または「悪い」先輩格の編集者にお題を出され(「新潮45」連載)、このたびは医療だけではなく時事問題に手を広げて論じた。
ここでも里見先生は、明るく怒る。
たとえば、金星人のセンスで「友愛」「いのちを大切にする」などと寝言を並べ、明らかに「コルサコフ症候群」(作話症)の症状を呈している鳩山由紀夫前首相などがその対象だ。もっとも、先生の怒りはこのような人物を当選させ、あまつさえ首相にまでしてしまった「きれいごと」や「正義」や「多数決主義」、その生みの母である「ホームルーム民主主義」に向けられているのである。
『水戸黄門』は、悪代官や越後屋を毎回こらしめる。しかし、当の悪代官や越後屋こそ、日頃リアルに真面目に仕事をしている人々だったとしたら? 悪役たちの目に、「説明責任」「インフォームドコンセント」「セカンドオピニオン」「議論を尽くす」など、さまざまな流行語をふりかざして攻めてくる黄門一派、それに強烈な「権利意識」と「民意」の圧力で武装した現代の「お百姓さん」たちはどう映るか? それがこの本のスタンスだ。
ところで、里見清一はペンネームである。そう聞いて思い出すのは、山崎豊子の『白い巨塔』だ。
六六年に映画化されたとき、主人公の外科医、名医と評判だが性格に圭角あって敵も多いのに、なにがなんでも教授になりたい浪速大学医学部助教授・財前五郎を演じたのは田宮二郎だった。医学部教授が絶対権力者であった昭和時代的設定であるが、手術に成功した彼は、同じ病院の内科医・里見脩二が注意を促したにもかかわらず、別の腫瘍を見逃して患者を死なす。遺族は田宮を訴える……。この作品は七八年から七九年にもテレビ化され、そのときも田宮二郎が財前、里見は山本学が演じた。
二〇〇三年から〇四年にかけて、もう一度テレビ化されたときの財前は唐沢寿明、里見は江口洋介だった。里見先生はこの番組の台本の「現代化」のためにアドバイスをしたのだが、善玉の役名を借りて悪役を志すとはいい度胸だ。かつて「周囲に神童扱い」された受験秀才は、はるけくもここまできた。これは皮肉ではない。
「希望は美味い朝飯だが、不味い晩飯だ」といったのはF・ベーコンだそうだ。今後も「遥か先の薔薇色の希望」などではなく、「眼前にある一里塚」を指し示すことしか、「地球人」である限り先生にはできないだろう。そうして「笑いながら怒る」彼の視線は、「患者さん」と、「患者さん」に似た日本に向けられつづけるだろう。私たちは、頼むに足る「真面目な悪役」を得た。
先生は、昨今病院で流行している(役所の指導?)「患者さま」という呼び方を前作『偽善の医療』(新潮新書)で、とても怒っておられた。
そりゃ怒るだろう。患者だって不快を超えて不安になる。ところが最近は「病客様」という病院があると、先生の新刊『希望という名の絶望』を読んで知った。驚くというより寒くなる。
「人情は“倫理”や規則よりも上位である」
前作で先生はこんな言葉をしるされた。お菓子でも缶コーヒーでも、ときには金一封でも患者がくれるとしたら、患者側にいいことがあるわけではないが、それはもらうべきだ。ただし、「恐縮して、また喜んで」。患者との関係をつくることが先生の「治療」の根幹である以上、とにかく患者に「こいつは自分の方を向いている」と思ってくれるよう「秘術を尽くす」のだ。
どうしようもない進行癌に対しては、「なにもしない」というつらい選択肢もある。「この最後の時に患者が私の忠告ないし勧告を聞き入れてくれるための関係作りの時間稼ぎみたいなものかも知れない」。こちらは『希望という名の絶望』にある。
毎月、患者を兼ねた友人、または「悪い」先輩格の編集者にお題を出され(「新潮45」連載)、このたびは医療だけではなく時事問題に手を広げて論じた。
ここでも里見先生は、明るく怒る。
たとえば、金星人のセンスで「友愛」「いのちを大切にする」などと寝言を並べ、明らかに「コルサコフ症候群」(作話症)の症状を呈している鳩山由紀夫前首相などがその対象だ。もっとも、先生の怒りはこのような人物を当選させ、あまつさえ首相にまでしてしまった「きれいごと」や「正義」や「多数決主義」、その生みの母である「ホームルーム民主主義」に向けられているのである。
『水戸黄門』は、悪代官や越後屋を毎回こらしめる。しかし、当の悪代官や越後屋こそ、日頃リアルに真面目に仕事をしている人々だったとしたら? 悪役たちの目に、「説明責任」「インフォームドコンセント」「セカンドオピニオン」「議論を尽くす」など、さまざまな流行語をふりかざして攻めてくる黄門一派、それに強烈な「権利意識」と「民意」の圧力で武装した現代の「お百姓さん」たちはどう映るか? それがこの本のスタンスだ。
ところで、里見清一はペンネームである。そう聞いて思い出すのは、山崎豊子の『白い巨塔』だ。
六六年に映画化されたとき、主人公の外科医、名医と評判だが性格に圭角あって敵も多いのに、なにがなんでも教授になりたい浪速大学医学部助教授・財前五郎を演じたのは田宮二郎だった。医学部教授が絶対権力者であった昭和時代的設定であるが、手術に成功した彼は、同じ病院の内科医・里見脩二が注意を促したにもかかわらず、別の腫瘍を見逃して患者を死なす。遺族は田宮を訴える……。この作品は七八年から七九年にもテレビ化され、そのときも田宮二郎が財前、里見は山本学が演じた。
二〇〇三年から〇四年にかけて、もう一度テレビ化されたときの財前は唐沢寿明、里見は江口洋介だった。里見先生はこの番組の台本の「現代化」のためにアドバイスをしたのだが、善玉の役名を借りて悪役を志すとはいい度胸だ。かつて「周囲に神童扱い」された受験秀才は、はるけくもここまできた。これは皮肉ではない。
「希望は美味い朝飯だが、不味い晩飯だ」といったのはF・ベーコンだそうだ。今後も「遥か先の薔薇色の希望」などではなく、「眼前にある一里塚」を指し示すことしか、「地球人」である限り先生にはできないだろう。そうして「笑いながら怒る」彼の視線は、「患者さん」と、「患者さん」に似た日本に向けられつづけるだろう。私たちは、頼むに足る「真面目な悪役」を得た。
(せきかわ・なつお 作家)
著者プロフィール
里見清一
サトミ・セイイチ
本名・國頭英夫。1961(昭和36)年鳥取県生まれ。1986年東京大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院内科などを経て日本赤十字社医療センター化学療法科部長。杏林大学客員教授。著書に『死にゆく患者(ひと)と、どう話すか』『医学の勝利が国家を滅ぼす』『医師の一分』など。
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