星座から見た地球
1,650円(税込)
発売日:2010/06/30
- 書籍
この小さい光があれば、物語は消えてしまわない。
書評
星の光の解読
福永信の小説は読むのにとても時間がかかる。ストーリーとか、キャラクターとか、語り手の視点とか、作中時間の流れ方とか、自分のなかに存在する「小説って大体こういうもの」という概念が通用しない部分が大きいからだ。そのような常識的判断をいったん保留にして、現に書かれている言葉のひとつひとつを受け止める必要がある。そのために、読者は緊張を強いられる。
例えば、ミステリーを読むときなどにも、「犯人やトリックや動機についての伏線」を見落とすまいとして、怪しそうな場面に注意を払うことがある。だが、福永作品の場合は「全て」を見落としてはいけないのだ。だから、どの一頁のどの一行にも意識を集中させることになる。でも、それだけの価値はある。言葉のひとつひとつによって世界像が更新される感覚はたまらなくスリリングだ。
過去に似たような読書体験があったかな、と振り返ると、『ねじ式』(つげ義春)とか、『ぼのぼの』(いがらしみきお)とか、高野文子の諸作品を読んだときのことが思い浮かんだ。いずれも漫画作品なのはどうしてだろう。小説と漫画とを比べると、後者の方が個体差というか可能性の展開の幅が大きいからかもしれない。
『星座から見た地球』では、A、B、C、Dという子供たちが順番に登場するエピソードがひとつの基本単位になっていて、それがくるくると回りながら最後まで繰り返される。だが、登場人物の同一性が保証されず(或るときは胎児だったり、死者だったり、空気だったり、白墨だったりもする)、おまけに作中時間も過去から未来へ向かって流れているわけではない。
この仕掛けの複雑さを前にすると、読者としてはなんだか挑戦されているような気分になる。伏線に充ちた世界をあたまのなかで組み立て直して、「普通の小説」のかたちに戻したくなるのだ。勿論、そういう読み方をしてもいいと思う。でも、本質的にはそのためのスタイルではない。ジグソーパズルじゃないんだから。
この小説の面白いところは、スタイルの特異性にも拘わらず、どんな読み方をしても、読み終えた人は共通の感覚に包まれてしまうだろう、と思えることだ。つまり、感動してしまうのだ。
最後の段落に至って、犯人=作者の意外な動機が明かされる。複雑に張り巡らされた伏線はこのためだったのか、と驚く。全ての記述は、ミステリーでいうところのトリックやアリバイのためではなかった。なんというか、それらは巨大な動機を直に支えていたのだ。
その動機とは何か。予め知っていても大丈夫だと思うから書いてしまうけど、それは「地球の全存在に対する愛」だ。なんじゃそれは、と呆れるような大テーマだが、そのつもりで読み始めても感動は減らないから安心して欲しい。しかし、こんな特異なルートを通って、愛のど真ん中にあたまを出す方法があるなんて、夢にも思わなかった。
Dは妹より早く死ぬことを承知していた。妹だけでなく彼女の両親よりも早くこの世を去るだろうというのがわかっていた。おじいちゃんとはいっしょくらいかもしれない。Dはなんとも思わない。
これ以上引用するとネタバレになってしまうのでやめておくが、引用部分を含む最終段落の、とりわけ最後の数行は完璧だ。
読み終えた後では、『星座から見た地球』というタイトルが、とても相応しいものに思える。遠い星の光のなかには、その地上に存在した全員の運命が混ざっているのではないか。もしも、星の光を精密に解読する目を与えられたら、そこに無数の命が響き合っている様子がみえるのだろう。本書はまさにそのレポートだ。
(ほむら・ひろし 歌人)
波 2010年7月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
福永信
フクナガ・シン
1972年、東京生まれ。1998年、「読み終えて」で第1回ストリートノベル大賞を受賞してデビュー。2015年、第5回早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞受賞。著書に『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『コップとコッペパンとペン』(2007)、村瀬恭子との共著に『あっぷあっぷ』(2004)『星座から見た地球』(2010)、『三姉妹とその友達』(2013)などがある。