窓の魚
1,320円(税込)
発売日:2008/06/27
- 書籍
誰も、あたしの本当の姿を知らない。あたしの本当の目から、涙がこぼれた。
秋のある日、二組のカップルが温泉へ向かう。男の子のようなナツ、つるりとした肌のアキオ。明るく派手なハルナ、ぶっきらぼうなトウヤマ。一緒にいるのに違う現実を見る四人にまとわりつく、不穏な影。裸になっても笑いあっていても、決して交わらない想い。大人になりきれない恋人たちの一夜を美しく残酷に描いた著者の新境地。
目次
ナツ
トウヤマ
ハルナ
アキオ
トウヤマ
ハルナ
アキオ
書誌情報
読み仮名 | マドノサカナ |
---|---|
雑誌から生まれた本 | 小説新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 192ページ |
ISBN | 978-4-10-307041-2 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品、文学賞受賞作家 |
定価 | 1,320円 |
書評
波 2008年7月号より 漆黒の闇に輝く仕掛け花火のように
西加奈子さんの小説は、最初の一行から読者をめくるめく物語世界へと引き込んでいく。『さくら』や『通天閣』もそうだった、そして『窓の魚』も。
「バスを降りた途端、細い絹糸のような風が、耳の付け根を怖がるように撫でていった。」
冒頭の一行だけでも、この作品のもっている微妙なテイストは伝わってくるだろう。そう、気怠い雰囲気というか、何か不吉なことが起きそうな気配が漂っているのだ。
初秋のある日、三十歳前後の男女四人が、川沿いの寂れた温泉宿にやってくるところから、この小説は始まる。一夜明けて、死体が一つ遺るのだが、実際には、それほど特別な出来事が起きるわけではない。にもかかわらず、全編に静かなサスペンスが張り詰めている。それは、色、匂い、肌触りなど五感に触れる繊細な描写によって増幅されていく。
「アキオの背中に手を当てると、背中に心臓が移ったかのように、どくどくと脈打っている。」……「むきたてのじゃがいものように白い岩の間を、緑の水が流れていく。」……「どろりと黒いクマが、目の周りに張り付いて離れない。」……「下着の跡が背中を這っていて、それは線路のように、胸の際まで続いている。」……「お湯の中でまた肌が粟立つほど、体がひやりと冷えた。」
それだけではない、いろいろな場面にうつろに響く音もある。姿の見えない猫の「ニャア」という鳴き声、池の鯉の「ぱちゃり」「ばちゃり」「ぽちゃん」とはねる音。
最初は得体の知れない四人なのだが、しだいしだいにそのプロフィールが、そして内面が明らかになっていく。ナツは「私はきっと、狂っている」と感じ、トウヤマは「自分が何か場違いな、隠されるべき人間」だと思う。ハルナは「あたしの、嘘だらけの体」と思っているし、アキオは「取るに足らない存在」と感じている。
そうなのだ、ここにいるのは、幼児体験などを引き摺るようにして、どこか大きな欠落を抱え込んで大人になった人間ばかり。孤独でありながら、自分自身にもなじむことができない人たちなのだ。
そういう彼らは、自分の欠けた部分を他人の何かで埋めることで、かろうじてバランスをとろうとする。こうして、主人公たちは、アクロバットのように、微妙な釣り合いを保ちながら、支え合って生きている。
この小説は、基本的に、四人の一人称(モノローグ)で、同じ時間、同じ場所で過ごした場面が語られていく。それに、旅館の女将や泊まり客などの短い証言が差し挟まれるというスタイルになっている。だから読者は、そこで何が起き、どういう会話があったのかの概要については、早い時期に知っている。
しかし、一人一人のモノローグを印画紙のように重ねていくと、その場の光景が立体的に見えてくる。そして、四枚の印画紙が重なったとき、鮮やかな仕掛け花火のようなものが目の前に浮かび上がってきたのだった。
この物語全体に、さりげない描写、ちょっとした伏線が、導火線のように張り巡らされていて、それらが一斉に火を噴いていくような感じだ。だが、花火といっても、音もない、熱もない、無数の小さな光が漆黒の闇の中に輝いている、そういうイメージなのだ。
ハルナ、ナツ、アキオ、そしてトウヤマ(たぶん「冬山」なのだろう)。四季の名前をもった登場人物たちは、その名が示すように、触れあうことはあっても、決して一体化することはできない宿命にある。途中までは、とうてい好きになれそうもない彼らだった。それなのに、その哀しみを抱え込んだ姿を見ていると、いつとはなしに愛しささえ感じ始めていた。
この、癖のある人間たちの演じる物語には、何の救いも解決もない。しかし、読み了えたとき、シンと静まった心の底から、なにか温かいものが滲み出してくるのを感じるのだった。
「バスを降りた途端、細い絹糸のような風が、耳の付け根を怖がるように撫でていった。」
冒頭の一行だけでも、この作品のもっている微妙なテイストは伝わってくるだろう。そう、気怠い雰囲気というか、何か不吉なことが起きそうな気配が漂っているのだ。
初秋のある日、三十歳前後の男女四人が、川沿いの寂れた温泉宿にやってくるところから、この小説は始まる。一夜明けて、死体が一つ遺るのだが、実際には、それほど特別な出来事が起きるわけではない。にもかかわらず、全編に静かなサスペンスが張り詰めている。それは、色、匂い、肌触りなど五感に触れる繊細な描写によって増幅されていく。
「アキオの背中に手を当てると、背中に心臓が移ったかのように、どくどくと脈打っている。」……「むきたてのじゃがいものように白い岩の間を、緑の水が流れていく。」……「どろりと黒いクマが、目の周りに張り付いて離れない。」……「下着の跡が背中を這っていて、それは線路のように、胸の際まで続いている。」……「お湯の中でまた肌が粟立つほど、体がひやりと冷えた。」
それだけではない、いろいろな場面にうつろに響く音もある。姿の見えない猫の「ニャア」という鳴き声、池の鯉の「ぱちゃり」「ばちゃり」「ぽちゃん」とはねる音。
最初は得体の知れない四人なのだが、しだいしだいにそのプロフィールが、そして内面が明らかになっていく。ナツは「私はきっと、狂っている」と感じ、トウヤマは「自分が何か場違いな、隠されるべき人間」だと思う。ハルナは「あたしの、嘘だらけの体」と思っているし、アキオは「取るに足らない存在」と感じている。
そうなのだ、ここにいるのは、幼児体験などを引き摺るようにして、どこか大きな欠落を抱え込んで大人になった人間ばかり。孤独でありながら、自分自身にもなじむことができない人たちなのだ。
そういう彼らは、自分の欠けた部分を他人の何かで埋めることで、かろうじてバランスをとろうとする。こうして、主人公たちは、アクロバットのように、微妙な釣り合いを保ちながら、支え合って生きている。
この小説は、基本的に、四人の一人称(モノローグ)で、同じ時間、同じ場所で過ごした場面が語られていく。それに、旅館の女将や泊まり客などの短い証言が差し挟まれるというスタイルになっている。だから読者は、そこで何が起き、どういう会話があったのかの概要については、早い時期に知っている。
しかし、一人一人のモノローグを印画紙のように重ねていくと、その場の光景が立体的に見えてくる。そして、四枚の印画紙が重なったとき、鮮やかな仕掛け花火のようなものが目の前に浮かび上がってきたのだった。
この物語全体に、さりげない描写、ちょっとした伏線が、導火線のように張り巡らされていて、それらが一斉に火を噴いていくような感じだ。だが、花火といっても、音もない、熱もない、無数の小さな光が漆黒の闇の中に輝いている、そういうイメージなのだ。
ハルナ、ナツ、アキオ、そしてトウヤマ(たぶん「冬山」なのだろう)。四季の名前をもった登場人物たちは、その名が示すように、触れあうことはあっても、決して一体化することはできない宿命にある。途中までは、とうてい好きになれそうもない彼らだった。それなのに、その哀しみを抱え込んだ姿を見ていると、いつとはなしに愛しささえ感じ始めていた。
この、癖のある人間たちの演じる物語には、何の救いも解決もない。しかし、読み了えたとき、シンと静まった心の底から、なにか温かいものが滲み出してくるのを感じるのだった。
(まつだ・てつお 編集者)
著者プロフィール
西加奈子
ニシ・カナコ
1977(昭和52)年、イランのテヘラン生れ。エジプトのカイロ、大阪で育つ。2004(平成16)年に『あおい』でデビュー。翌年、1匹の犬と5人の家族の暮らしを描いた『さくら』を発表、ベストセラーに。2007年『通天閣』で織田作之助賞、2013年『ふくわらい』で河合隼雄物語賞、2015年『サラバ!』で直木賞、2024(令和6)年『くもをさがす』で読売文学賞を受賞。その他の作品に『窓の魚』『きいろいゾウ』『きりこについて』『漁港の肉子ちゃん』『舞台』『i』『夜が明ける』『わたしに会いたい』など多数。
判型違い(文庫)
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