宰相A
1,760円(税込)
発売日:2015/02/27
- 書籍
おまえは日本人じゃない、旧日本人だ。そして我が国は今も世界中で戦争中なのだ!
書評
全体主義的国家のグロテスクな寓話
「私」こと、Tが母の墓参りのためにO町を訪れる。小説家である「私」は、最近ネタが尽きており、約30年ぶりの墓参りを切っ掛けに浮上をはかろうという魂胆だ。
だが、「私」がOの駅に到着したとたんに、物語は一転して、パラレルワールドの世界に突入する。「私」が迷い込む世界は、もう一つの「日本」だ。
「私」が迷い込んだもう一つの「日本」は、先の大戦後に、アングロサクソン系のアメリカ人が占拠して、そのまま「日本国」を継承。公用語として自分たちの言語である英語を採用。それまで日本人だった者(モンゴロイド系)は、「旧日本人/先住民」として特別なゲットー(居住区)に押し込められたという。
このもう一つの「日本」の特徴は、次の三つだ。一つ目は、アングロサクソン系の日本人は皆、緑色の制服を着ている。「制服/軍服」の着用は、「日本人」の重要な義務の一つである。
制服と私服の対立がこの小説に、「善」と「悪」をめぐる二元論的思考という変奏を加える。三島由紀夫の自害(1970年)と映画「ゴッドファーザー」(1972年)が小説の中で何度も言及されるが、三島の場合は、私服を捨てて軍服に着替えた例(軍人)として、「ゴッドファーザー」のマイケル(アル・パチーノ)は、逆に軍服を捨てて私服に着替えた者(マフィア)として好対照をなす。軍服による殺人は、「戦争」という大義ゆえに許容され、ときに「武勲」として称えられるが、私服での殺人は、マイケルの場合のように、悪辣な「犯罪」と見なされる。同じ殺人なのに、倫理的な観点からすると、その違いはどこにあるのか、とこの寓話は問う。
二つ目の特徴は、「民主主義」を政体の根幹に据えておきながら、このもう一つの「日本」のやっていることは、全体主義的な独裁である。個人の自由は許されず、芸術家や小説家も国家のための道具にすぎない。国家と関わりのない表現は「反民主主義」的な行為と見なされる。「旧日本人」でも、新生「日本」に忠誠と貢献を誓えば、「日本人」になることができる。その代表的な例が、この小説のタイトルにもなっている「宰相A」である。「日本」を作り出したアングロサクソン系の者たちは、国民の三分の二以上をなす「旧日本人」の反乱を怖れ、政府のトップに「旧日本人」のAを据えたのだ。もちろん、「宰相A」は傀儡にすぎない。
三つ目は、アメリカと同盟を結んで、「平和のための戦争」をくり返す「好戦性」だ。「宰相A」は、「戦争こそ平和の何よりの基盤」とか、「戦争は平和の偉大なる母」とか、詭弁を弄する。そうした詭弁は理解不能なまでにねじ曲げられた「宰相A」の所信表明となる。すなわち、「最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります」と。
思えば、メイフラワー号に乗った
というわけで、登場人物の「宰相A」は、自身の英語へのコンプレックスゆえに小学生から英語を習わせようとしたり、国民の命や暮らしを守るために、憲法第9条を見直して、安全保障法制の整備をする、などと述べたりしている、どこかの首相(これもなぜかAだ)を容易に思い出させる。だから、これは現在の日本にまっすぐつながる怖くてグロテスクな「寓話」なのだ。
(こしかわ・よしあき アメリカ文学者)
波 2015年3月号より
単行本刊行時掲載
宰相Aって、あの宰相Aのこと?
このタイトルだけで「おっ、なになに?」と身を乗り出す読者は多いはず。宰相Aって、あの宰相Aのこと?
まあまあ、結論は急がずに。
田中慎弥『宰相A』は、一言でいえばパラレルワールドものである。母の墓参りのため、ほぼ三〇年ぶりに故郷の駅に降り立った「私」こと作家のTは、そこが自分の知らない日本であることに気づく。聞こえてくるのは英語だけ。いるのはアングロサクソン系の人ばかり。
先の戦争が終わった後、日本はアメリカが統治する国となり、アングロサクソン系の白人たちが「日本人」に、かつてこの地に住んでいたアジア系の人々は「旧日本人」と呼ばれている。旧日本人は「居住区」に押し込められ、選挙権もない。ただし反乱を封じるため、首相だけは旧日本人の中から選ばれている。その人こそが宰相Aだ。対米従属国なんていう程度ではない、文字通りの傀儡国家!
そこに紛れ込んだ「私」は旧日本人コミュニティに伝わる英雄的な反逆者Jの再来とみなされ、皮肉な運命に巻きこまれていくのである。「私」の希望は母の墓を探すことと、紙と鉛筆を手に入れることだけなのに。
一〇年前、二〇年前だったら、一種の諷刺小説としてもっと余裕で読めたかもね。しかし今日、作中の「戯画化された日本」と「現実の日本」はますます近似しつつある。なにしろ作中の日本は〈我が国は依然としてアメリカとともに某大陸の某丘陵地帯にて某国と某交戦中〉。モニターに映し出された首相は興奮気味に〈最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります〉なぞと語るのだ。
はたして宰相Aとは、あの宰相Aのことなのか。
半分は正解、でも半分は不正解かな。
作中の宰相Aと現実の宰相Aは、たしかに重なるところがあり、『宰相A』はアメリカに意のままに操られているかのような現政権への告発小説と読めぬでもない。
しかし、そのような読み方に限定するのは、小説の矮小化ってものだろう。宰相Aの「A」は、「少年A」のような特定されない為政者を指す頭文字ともとれるのだ。民族や宗教や人種のちがいに由来する際限のない差別と殺戮。国家がふるう暴力もまた狂気に近い。スターリン時代のソ連も、ナチスドイツも、あるいは今日の中東も。
後半、「私」は旧日本人から日本人に昇格した「内通者」の女性と関係を持ち、そのことと居住区内で発生した暴動が原因で、女ともども凄まじい拷問にあう。
作中には、イエス・キリストからカフカの『城』、映画の「ゴッドファーザー」、割腹自殺した三島由紀夫まで、さまざまなイメージが点滅し、読者を迷宮に誘い込む。冒頭近くで「私」の夢に出てきた母の言葉が示唆的だ。
〈あなたが生れたのは特に、男たちがお話の主人公になりたくてなりたくて仕方ないっていう時代だった。日本がアメリカ相手に太平洋の真ん中で始めた大っきな戦争が終ってから二十年以上経ってるのに、ベトナムでもまたやってた。(略)自分に夢中。お話の中に僕も混ぜて。主人公にしてして。戦争する男も反対する男も、自分が神の子どものあの人みたいにこの世を救うんだって信じてたのかしら〉
「私」は結局、拷問の末に記憶を失い、正式な日本人として〈機械的に当局に都合のよいものしか書かない御用作家〉になるのだが……。十分、世界文学たりえる問題作。荒唐無稽なお話として、笑い飛ばせない現在がおそろしい。
(さいとう・みなこ 文芸評論家)
波 2015年3月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
田中慎弥
タナカ・シンヤ
1972(昭和47)年山口県生れ。山口県立下関中央工業高校卒業。2005(平成17)年「冷たい水の羊」で新潮新人賞受賞。2008年「蛹」で川端康成文学賞を受賞、同年に「蛹」を収録した作品集『切れた鎖』で三島由紀夫賞、2012年「共喰い」で芥川賞受賞。他の著書に『神様のいない日本シリーズ』『犬と鴉』『実験』『夜蜘蛛』『燃える家』『宰相A』『美しい国への旅』『孤独論 逃げよ、生きよ』等。