幻世の祈り―家族狩り 第一部―
572円(税込)
発売日:2004/01/28
- 文庫
- 電子書籍あり
あなたのために、作家・天童荒太が費やした歳月がここにある。山本賞受賞作『家族狩り』の構想をもとに、生み出された新作長編。人間の醜さ、気高さ、その全てを描く魂の五部作、堂々刊行。
高校教師・巣藤浚介は、恋人と家庭をつくることに強い抵抗を感じていた。馬見原光毅刑事は、ある母子との旅の終わりに、心の疼きを抱いた。児童心理に携わる氷崎游子は、虐待される女児に胸を痛めていた。女子高生による傷害事件が運命の出会いを生み、悲劇の奥底につづく長き階段が姿を現す。山本賞受賞作の構想をもとに、歳月をかけて書き下ろされた入魂の巨編が、いま幕を開ける。
書誌情報
読み仮名 | マボロヨノイノリカゾクガリダイイチブ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 304ページ |
ISBN | 978-4-10-145712-3 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | て-2-2 |
ジャンル | 文芸作品、文学賞受賞作家 |
定価 | 572円 |
電子書籍 価格 | 572円 |
電子書籍 配信開始日 | 2021/01/15 |
書評
僕がのめりこんだ物語
ここ三十年ほど、無心に小説を読むことが少なくなった。テレビ局のドラマのプロデューサーになってから、これはドラマ化できるだろうか、という邪念がついつい頭をよぎる。
だがそんな邪念がいつの間にか吹き飛ばされ、夢中になって心躍らせた作品もある。この作品が生まれた時に作家の思い浮かべた光景を僕も目の当たりにしたい。心打たれた登場人物に生で出会いたい。そんな思いから自分が映像化に関わった二つの新潮文庫作品をご紹介したい。
その一つは、山崎豊子先生の『華麗なる一族』である。欲望と理想の相克という近代ビジネスのパートと、原始的な嫉妬が家族間で濃密に織りなされるパートの双方に身体が震える大傑作である。映像化に当たっては、圧倒的なモンスターである万俵大介を描くために、原作ではそこまで大きくない悲劇の男、万俵鉄平を主人公に据えようと考えた。テレビのお客様に感情移入させるには、等身大の人物が必要だ。魑魅魍魎が跋扈するこの作品世界において、唯一、理想に生き悲劇に死す鉄平を主人公にしたいと語った僕を、山崎先生は「私は負け戦に乗るつもりは一切ない。勝算はいかほどおありですか」と、驚く程大きな声で糺された。繊細な腕時計の機構のように感情を計算しつくした上で津波の如きうねりへと編んだ物語を簡単には改変させないぞと、我々の覚悟を問われたのである。勿論、僕らも引けない。渾身の想いで考え尽くした構成案を滔々と説明した。先生の険しい顔は変わらないまま、仲立ちの方々の尽力により制作はスタートした。
最終回の放送が終わり、山崎先生にお礼のご挨拶に伺ったところ、かの志摩観光ホテルから取寄せて下さったイセエビのお刺身をふるまって下さり、初めて笑顔を見せて下さった。我々が試みた物語の再構築にようやく納得されたのだ。その笑顔は鬼籍に入られた今も忘れられない。
もう一作は、天童荒太先生の新潮文庫版『家族狩り』五部作である。次々に起こる凄惨な一家心中事件の細やかな違和感に、実は殺人事件ではないかと気づき謎を追う刑事と、事件に巻き込まれる児童福祉司と教師の姿を描いたサスペンスであり、人間ドラマである。映像化に当たっては、天童先生が、今、リライトするのならば、こう描くのではないか、というその一点を核として制作した。原作を頭の中にすべて叩き込み、天童先生が、この作品を執筆した時の心象風景を垣間見ようと願った。この問題だらけの世界に『家族狩り』を届けなければならないと志した天童先生の心象を僕らが共有せねば、この作品の映像化は意味がない。不遜にもそう思い詰めていた。会社の会議室に何か月も泊まり込み、脚本家の大石静先生や演出の坪井敏雄君と何百時間と考え尽くした。そんな僕らを見かねて、天童荒太先生が、台本の一部を加筆してくださるようになった。そこには、キーになるシーンの台詞に加えて、必ず励ましの言葉や作劇のヒントになるような手紙(メール)が添えられていて、それは嵐の中に、それでも確かに光る灯台のように、僕たちを高みに導いてくださった。僕はテレビドラマの制作者にすぎないが、この物語を伝えなくて、何のためにこの仕事に就いているのだという作品に出会うことがある。僕にとっては、それが『家族狩り』だったのである。
最後に、いつか映像化したい作品として挙げたいのが、遠藤周作先生の『沈黙』だ。
江戸時代のキリスト教弾圧の渦中で、ポルトガル人司祭が神の存在や信教の意味を問うという大傑作である。この国における、時にあやふやな、しかし時として頑固に横たわる奇妙な宗教観を、物語を通して炙りだしたいと狙っている。かくいう自分は、宗教に拘りのない凡俗の一人である。なぜ『沈黙』にここまで拘るかといえば、その理由は「オウム真理教事件」にある。僕は「オウム真理教」の幹部たちと同世代である。オウムに実際に傾倒し犯罪に関わった知己もいる。我が国には、確たる宗教観がそもそも不在であり、その無垢性ゆえにひとたび宗教に感染すると、命の重さすら霞んでしまうような絶対性、殉教性を帯びる。だが、本当にそこに神はいるのだろうか。そして、国家権力は、信教の自由を本当に保障し続けるものなのか。そんな構想をずっとくゆらせている。
(うえだ・ひろき TBSテレビ・ドラマプロデューサー)
波 2020年8月号より
インタビュー/対談/エッセイ
21世紀に読まれるべき物語を描くため
「新・家族狩り」五部作によせて
まっすぐ見つめたい
――このたび、1995年に発表された『家族狩り』の構想をもとに新たに書き下ろされた長篇が、新潮文庫で刊行されることになりました。『家族狩り』は山本周五郎賞を受賞した作品です。まず、なぜ書籍のままの内容で文庫化されなかったのかを伺いたいと思います。
天童 『家族狩り』(=以下書籍版)は1995年に刊行されましたが、執筆は、1992年から1995年の夏にかけてです。本質的なテーマは現在でも通用する普遍性があると思っていますが、二一世紀に足を踏み入れたいま、当時の時代背景のまま、時代性とも密接に関わっている物語を現在の読者に伝えることが、本当に誠実であるのかどうか……そう考えた時に、別の選択肢もあるのではと考えたんです。
――書籍版が刊行されたのち、日本各地でさまざまな悲惨な事件が起こり、海外では9・11が起こり、アフガンやイラクでは多くの血が流れています。
天童 そのとおりです。国の内外で起きた事件を、たとえニュースの上だとしても、人は経験してるんです。そうした時代の中を生きている人々が本を手に取るわけだから、どうしても1995年に書かれた小説とは距離ができてしまいます。一方で、1995年以降、以前にもまして、子供に関係する事件や家族をめぐる事件が顕在化してきました。『永遠の仔』(1999年刊)を書き上げて、僕は作家として大きく変わったと意識していますし、刊行後に数千通に及ぶ読者からの手紙を頂き、人間としてもさらにさまざまな事を学びました。『家族狩り』の主題を、今回は国内にとどまらず、世界全体へも広げて、悲劇までグローバル化してきた二一世紀に発表されるにふさわしい作品とするため、『永遠の仔』で得た力も、ここに注ぎ込むべきだと思ったんです。
――この作品は全五部作として、一月末より、毎月一冊ずつ刊行されます。このかたちで発表されることを選ばれた意味とは何でしょうか?
天童 書籍版の文庫化をどうするかということから、今回の企画は始まっていましたし、想定した枚数を収める単行本を買っていただくとすると、読者にも大きな負担がかかりますから――。すべて新たに書き起こした新作だけれども、あえて文庫で刊行すると決めた上で、枚数および構成的に五分冊にする発想が生れ、新潮社にお願いして、了解してもらいました。
結果として、他の作家の方の文庫と同じ価格で一部ずつ刊行されることにもなるわけで、既に世に出ている一冊と同じか、それ以上のクオリティがないと、読者に失礼でしょう? 一部ずつクオリティを高めることに努め、毎月毎月、読者に丁寧に届けていくことが、愚直かもしれないけれども誠実な方法だろうと思ったんです。さらに言えば、五部まで中途半端に流れるのではなくて、一部ずつきちんと自立している作品として、表現しようと努めました。
――書籍版より九〇〇枚ほど増えて、五部の総枚数が二二〇〇枚を超えましたね。
天童 現在この世界を生きる人々の抱えている問題が、そのぐらい複雑だからということでしょうか。右だ左だ、正義だ悪だ、と言い切れないことのほうが本当は多い。安易に割り切ることをせず、複雑なものは複雑なまま真っすぐ見つめたいと考えています。
ひとりの人間は善と悪の両方を抱えている。テロのことひとつ取っても、社会もまた単純には割り切れないものを抱えている。登場人物ひとりひとりをしっかり追いかけていこうとすると、自然と物語は膨らんでゆくし、彼らの人生にきちんと責任を持ちたいとも思う。登場人物のほうでも「おれは、ちゃんと生きたいんだ」と訴えかけてくるから、枚数を機械的に区切る姿勢で、書ききれるものではないんですよ。
唯一無二の存在を描く
――先ほどの発言にもありましたが、天童さんは、執筆しながら、登場人物にかなり没入していくタイプの作家であると思います。作家本人との性差、年齢差などを超えて、どのように没入するのですか?
天童 単純ですが、ひたすら思い込むしかない。演劇をやっていたことも役に立つのかもしれませんけど……。登場人物を最初に生みだすときには、その人がどういう親の間にどんなふうに生まれて、どんな幼稚園に行ってどんな小学校へ行ってというバックボーンを全部造ります。
――以前、読者が既視感を持つような人物を描きたくないとおっしゃっていましたが。
天童 現実に生きているどんな人も唯一無二の存在でしょう。小説の中に出てくるキャラクターもそれぞれ、この世でただひとりの人でなくてはいけないと思います。とことんまで突き詰めて描き切れば、既視感が起こるはずはないんです。
――今回の作品には、主要登場人物の友人や親族など、新たな登場人物が複数出てきますが、物語に奉仕する存在としての脇役はひとりも登場しませんね?
天童 そういう人物が登場するというのは、物語世界をつくる上で、作者の決めたルートが先にありきということでしょう? 物語に出てくる者は、この世で唯一の人格を持った人間でなくてはいけない。一瞬だけすれ違うような人々にも唯一性があるからこそ、主要キャラクターも唯一性を保持できるのだと思います。
――坂本龍一さんとの対談集『少年とアフリカ』の中で、執筆中に「小説は難しい」といつも呟いている、と言っていらっしゃいましたが。
天童 今も言っていますよ、毎日のように(苦笑)。登場人物の心を生きていくという作業と、それを俯瞰しながら小説として構成して、商品としての品質を維持する仕事は、別なものなので。締め切りという物理的に定められた制約がある中で両者のバランスをとっていくのは、本当に難しい。
――苦しい中での楽しさは?
天童 ぎりぎりまで突き詰めていったときに、これまで限界だと思っていた表現の上限を突き抜けたものが出てくる瞬間があるからでしょうね。――では、喜びがなきゃやらないのかというと、それも分からないですけどね。子どもの頃、三枚の作文で苦しんでいた人間が、こんな枚数をいま書けるというのは、ある意味で小説にとりつかれているんだろうとも思うから。
――今回の長篇を描いたことで、天童荒太という作家はステップをまた一歩上ったという感触はありますか?
天童 自分の表現が一つ、或いは二つか三つくらい深まった、とは思っています。これを書く前の自分と、書いた後の自分は違っているというのは、はっきり実感できる。それを求めてあがくために、時間がかかっているという部分も確かにありますね。
――前作の短編集から三年、長篇は五年ぶりということで、待って頂いていた読者の方々に対しては、どのような気持ちで臨まれていますか?
天童 担当編集者は知っているでしょ? 努力を公言するのは恥ずかしいことだけども、毎日毎日休みなく、枚数としてもこれだけの数を書いているんだって。読者の皆さんには、「寡作に見えるかもしれないけど内容で判断してください」と言うしかないのかな。謝るのもどこか変だと思いますし。一生懸命やってるから、この状態だとも言えるので。
ただ、あなたに好きな表現者がいるとして、作品が内容に関係なく多数発表されればそれだけで嬉しい、とは限らないでしょう? 僕があるクリエーターのファンである時は、何でもいいから数を味わいたいとは思わないんです。その人がいまの時代に何を悩んで、この世界の何で苦しんでいるのか? 真剣に考え抜いて丁寧に生み出された作品であれば、お金を出して時間かけてでも見たいし、読みたいし、出かけて触れたい、と思います。けれども、才能と小手先の技術で、ある短い時間で創ってきたものを次から次に出されても、あまり嬉しくないし、無理に見たいとも思わないです。
皆さんの貴重な時間と貴重なお金にこたえるものを、送り手として創り続けていかないといけない。でなければ、人の心にはきっと届かないだろうということは、信念に近いくらいに強く心に持っています。……長い間お待たせしましたが、今回、それに見合うだけの小説が書けましたと、この点だけは胸を張って言えます。
(てんどう・あらた 作家)
波 2004年2月号より
著者プロフィール
天童荒太
テンドウ・アラタ
1960(昭和35)年、愛媛県生れ。1986年、「白の家族」で野性時代新人文学賞を受賞。映画の原作、脚本を手がけたのち、1993(平成5)年、『孤独の歌声』が日本推理サスペンス大賞優秀作となる。1996年、『家族狩り』で山本周五郎賞を受賞。2000年、『永遠の仔』で日本推理作家協会賞を受賞。2009年、『悼む人』で直木賞を受賞。2013年、『歓喜の仔』で毎日出版文化賞を受賞する。他に『あふれた愛』『包帯クラブ』『静人日記』『ムーンナイト・ダイバー』『ペインレス』『巡礼の家』『迷子のままで』などがある。