赤頭巾ちゃん気をつけて
605円(税込)
発売日:2012/02/28
- 文庫
60年代から2010年代へ――。伝説のミリオンセラーふたたび! 芥川賞受賞作。「あわや半世紀のあとがき」収録。
学生運動の煽りを受け、東大入試が中止になるという災難に見舞われた日比谷高校三年の薫くん。そのうえ愛犬が死に、幼馴染の由美と絶交し、踏んだり蹴ったりの一日がスタートするが――。真の知性とは何か。戦後民主主義はどこまで到達できるのか。青年の眼で、現代日本に通底する価値観の揺らぎを直視し、今なお斬新な文体による青春小説の最高傑作。「あわや半世紀のあとがき」収録。
目次
赤頭巾ちゃん気をつけて
翌日読んでもらいたいささやかなあとがき
四半世紀たってのあとがき
あわや半世紀のあとがき
解説 苅部直
書誌情報
読み仮名 | アカズキンチャンキヲツケテ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 208ページ |
ISBN | 978-4-10-138531-0 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | し-73-1 |
ジャンル | 文芸作品、文学賞受賞作家 |
定価 | 605円 |
書評
波 2012年3月号より 薫くんが、新潮文庫にやって来た。
ぼくは時々――と、書き出しのフレーズをお目にかけたとたんに「おっ」と声があがるだろうか。あがってほしい。できればたくさん、そして、あちこちから。
〈ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ〉
〈ぼくは時々、男の子が生きていくってのには相当にややこしいところがあるらしいとしみじみ思う〉
前者は『赤頭巾ちゃん気をつけて』、後者は『さよなら快傑黒頭巾』の書き出しである。さきほど「おっ」と声をあげたひとは、そうそうそう、とうなずくだろう。なつかしいなあ、と頬をゆるめる方もいらっしゃるかもしれない。
実際、なつかしい作品ではあるのだ。もう少し説明をつづける。二作の著者は、主人公と同じ名前の庄司薫さん。ともに一九六九年に刊行され、『赤頭巾』は同年の芥川賞受賞作でもある。作者はその後一九七一年に『白鳥の歌なんか聞えない』を、一九七七年に『ぼくの大好きな青髭』を刊行し、前掲二作と合わせて「薫くん」シリーズ四部作を完結させたのち、現在に至るまで小説の新刊は発表していない。作家として、長い長い沈黙をつづけているのである。
……もちろん、このあたりは〈ぼくは時々〉に反応したひとにとっては言わずもがなのことだろう。
一方、〈ぼくは時々〉にきょとんとしていたひとたち(若い世代に多いだろうな)は、「『薫くん』シリーズってどんな話なの?」と訊きたくなるかもしれない。
さあ、ここだ、問題なのは。
じつは「薫くん」シリーズ四作は、このたび新潮文庫のラインナップに加わることになったのだ。慶事である。その祝いの景気づけの一つが、わが拙文なのである。笛や太鼓を鳴らすことが使命なのである。ならば、分不相応に背伸びして、くどくどと解説めいたことを並べ立てるよりも、ただ一言「書店へ行きたまえ」ですませておきたいと思う。ドンドン、と太鼓も叩いておこう。ピーヒャラ、と笛も吹いたぞ。
代わりに、文庫化に際して消えてしまうはずの(すでに先行の中公文庫版でも消えていた)単行本版の帯の惹句を紹介しておきたい。それこそ「ぼくは時々」思うのだが、単行本の惹句を文庫のどこかに残しておいてくれるといいのに。文庫よりもはるかに商品としての「先行逃げ切り」を意識している単行本の惹句には、その作品が世に出たときの「新しさ」が(時に下品になったりハズしたりしながらも)、当時の世相や価値観と絡み合いながら、よりビビッドに出ているものなのだから。
『赤頭巾』の惹句は、こうである。
〈女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかに生くべきか。さまよえる現代の若者を爽やかに描く新しい文学の登場!〉
『黒頭巾』は、こう。
〈みんなを幸福にするために、強くやさしく勇気ある男になるために、薫クンはいま何をなすべきか〉
『白鳥』は――。
〈早春の陽ざしに音もなく忍びよる死の影。生命あることの寂しさ空しさを見すえて互いに求めつつさすらう若い魂を、光と影の交錯の中に美しく描く永遠の青春像〉
『青髭』は――。
〈若者の夢が世界を動かす時代は終ったのか……。月ロケットアポロ11号の成功の蔭で沈んでいった葦舟ラー号。熱気渦巻く新宿を舞台に現代の青春の運命を描く〉
書き写しながら、えらく面白そうだなあ、と思った。ホントに。大河小説だ。薫くんの成長小説でもあるだろう。そして、作品の主題以前に惹句の陰影や苦みの増し方が、一九六九年から一九七七年までの〈若者〉の変化を如実に示しているようにも思うのだ。
ところで、なぜ僕は単行本の惹句を書き写すことができたのか。じつは『赤頭巾』刊行時に小学一年生だった僕は、四部作をすべて単行本で持っている。正確に言うなら、「薫くん」と同世代の叔母が若い頃に買いそろえていた四冊を譲ってもらったのである。「『薫くん』ならあんたでも読めるけん、あげるわ」。うるせえな。でも実際、一気に読めた。大学に入るか入らないかだったから、一九八一年前後。『赤頭巾』のビニール装は相応に古びていたが、『青髭』はまだピカピカした新しさを残していた頃のことだ。
以来三十年ほどの歳月が流れた。その間、四作を通読したのは、それぞれ二回か三回――「愛読書です」とは言えない。物語を克明に覚えているというわけでもない。
ただし、忘れ去っているのではない。たとえ物語の断片でも、いや断片だからこそ、ふとしたときに思いだすことがある。それも、最初から「この作品の、この場面」としてよみがえるのではない。書棚の前に立って、作品名が浮かばない断片を「あれはなんだっけ?」と頭の中で転がしながら、目星をつけた本をぱらぱらめくっているうちに「ああ、そうか」と答えに行き着く、そういうことが「薫くん」シリーズは特に多いような気もする。
たとえば、またもや「ぼくは時々」――そういえば、と思うのだ。
そういえば、爪を剥がした足の親指を小さな女の子に踏まれる場面があった小説って、なんだっけ? そういえば、男は朝勃ちしたペニスが邪魔になるから目を覚ましてもすぐには体を起こせないんだという、ぼやきから始まる小説って、あったよなあ。そういえば、カノジョがその気になっているのに「だめだよ」と誘いを拒んでズボンの中で射精してしまう奴って、なんの小説に出てたっけ。そういえば、新宿の紀伊國屋書店のエスカレーター脇で始まる小説は……。
すべて「薫くん」シリーズである。どの問いがどの作品に呼応するのかは、どうか実物にあたって確かめてみていただきたい。ピーヒャラ、ドンドン。
格好よく言えば、血肉になっている、ということなのだろうか。薫くんの物語は、じっくり煮込んだポタージュのように、たとえ物語としてのかたちは溶けて消えてしまっても、その旨みはむしろ凝縮されて、読み手の胸の中に残っているのかもしれない。
実際、今回あらためて四作を通読してみると、薫くんの語る言葉と自分自身との馴染み具合に驚かされる。固有名詞やその他もろもろ、確かに二〇一二年の「いま」との距離を感じる箇所はないわけではない(冒頭に掲げた『赤頭巾』の書き出しなんて、ケータイの時代ではありえないものね)し、そもそもけっこう理屈っぽくて衒学めいたやり取りも少なくない。だが、それらはいくらでも補正、あるいは無視が可能である。とにかく読んでいる最中には、薫くんの語り口に素直に身をゆだねておけばいい。すると、びっくりするほどすんなり言葉が染み入っていくことに気づくはずだ。浸透圧とかイオンとか、難しいことはよくわからないのだが、ほら、スポーツドリンクを飲んだときの、腹に溜まる間もなく染み込んでいく、あの感覚と同じなのである。
さらに、今回読み返して初めて思ったこと――ひたすら休みなくおしゃべりをつづける薫くんは、結局のところ、四編の物語でいつも、たった一つの決定的な言葉を探しているのではないか?
〈ぼくは言葉を探し、さまよい、迷い子になり、そしてどうしてもつかまえられぬままもどかしく繰返した〉(『赤頭巾』)
〈ぼくは言いかけたけれどすぐ口を噤んだ。ぼくの胸の中にはさまざまな思いが溢れていたが、ぼくにはたった今のぼくが、何かとてつもなく素朴で馬鹿げた夢のような言葉を口走りそうなそんな気がしたからだった〉(『青髭』)
あんなにたくさんの言葉を費やしていながら、違う、たくさんの言葉を費やしたからこそ、薫くんは、届かない言葉、語られなかった言葉、言葉のかたちを持たない言葉を求める。「薫くん」四部作は言葉探しの物語でもあったのだ、と僕はいま思う。そして、その言葉探しの物語が、ツイッターの時代に新潮文庫入りしたことを、あらためて笛を吹き、太鼓を叩いて祝したいのである。
庄司薫さんは一九三七年四月生まれ。『赤頭巾』が新潮文庫から刊行されてほどなく、満七十五歳になる。ちなみに日比谷高校時代の同級生は古井由吉さん、塩野七生さん。けれど、あたりまえの話だが、書店の棚は作家の年齢別になっているわけではない(「古井由吉」と「古川日出男」が隣り合っている光景を見るたびに、僕は文学の強さを実感する)。すべてが「現役」である。だからこそ、思う。伊坂幸太郎さんや舞城王太郎さんを読んできた若い読み手に、ケータイを使って饒舌につぶやきつづける無数の語り手に、薫くんの物語はどんなふうに響くのだろう……。
ああそうだ、最後にもう一つ、笛と太鼓を。
今回の新潮文庫入りにあたって、庄司薫さんは『赤頭巾』に新たな後記『あわや半世紀のあとがき』を寄せている。
その書き出しは、〈ぼくは時々〉――なんだぜ。
〈ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ〉
〈ぼくは時々、男の子が生きていくってのには相当にややこしいところがあるらしいとしみじみ思う〉
前者は『赤頭巾ちゃん気をつけて』、後者は『さよなら快傑黒頭巾』の書き出しである。さきほど「おっ」と声をあげたひとは、そうそうそう、とうなずくだろう。なつかしいなあ、と頬をゆるめる方もいらっしゃるかもしれない。
実際、なつかしい作品ではあるのだ。もう少し説明をつづける。二作の著者は、主人公と同じ名前の庄司薫さん。ともに一九六九年に刊行され、『赤頭巾』は同年の芥川賞受賞作でもある。作者はその後一九七一年に『白鳥の歌なんか聞えない』を、一九七七年に『ぼくの大好きな青髭』を刊行し、前掲二作と合わせて「薫くん」シリーズ四部作を完結させたのち、現在に至るまで小説の新刊は発表していない。作家として、長い長い沈黙をつづけているのである。
……もちろん、このあたりは〈ぼくは時々〉に反応したひとにとっては言わずもがなのことだろう。
一方、〈ぼくは時々〉にきょとんとしていたひとたち(若い世代に多いだろうな)は、「『薫くん』シリーズってどんな話なの?」と訊きたくなるかもしれない。
さあ、ここだ、問題なのは。
じつは「薫くん」シリーズ四作は、このたび新潮文庫のラインナップに加わることになったのだ。慶事である。その祝いの景気づけの一つが、わが拙文なのである。笛や太鼓を鳴らすことが使命なのである。ならば、分不相応に背伸びして、くどくどと解説めいたことを並べ立てるよりも、ただ一言「書店へ行きたまえ」ですませておきたいと思う。ドンドン、と太鼓も叩いておこう。ピーヒャラ、と笛も吹いたぞ。
代わりに、文庫化に際して消えてしまうはずの(すでに先行の中公文庫版でも消えていた)単行本版の帯の惹句を紹介しておきたい。それこそ「ぼくは時々」思うのだが、単行本の惹句を文庫のどこかに残しておいてくれるといいのに。文庫よりもはるかに商品としての「先行逃げ切り」を意識している単行本の惹句には、その作品が世に出たときの「新しさ」が(時に下品になったりハズしたりしながらも)、当時の世相や価値観と絡み合いながら、よりビビッドに出ているものなのだから。
『赤頭巾』の惹句は、こうである。
〈女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかに生くべきか。さまよえる現代の若者を爽やかに描く新しい文学の登場!〉
『黒頭巾』は、こう。
〈みんなを幸福にするために、強くやさしく勇気ある男になるために、薫クンはいま何をなすべきか〉
『白鳥』は――。
〈早春の陽ざしに音もなく忍びよる死の影。生命あることの寂しさ空しさを見すえて互いに求めつつさすらう若い魂を、光と影の交錯の中に美しく描く永遠の青春像〉
『青髭』は――。
〈若者の夢が世界を動かす時代は終ったのか……。月ロケットアポロ11号の成功の蔭で沈んでいった葦舟ラー号。熱気渦巻く新宿を舞台に現代の青春の運命を描く〉
書き写しながら、えらく面白そうだなあ、と思った。ホントに。大河小説だ。薫くんの成長小説でもあるだろう。そして、作品の主題以前に惹句の陰影や苦みの増し方が、一九六九年から一九七七年までの〈若者〉の変化を如実に示しているようにも思うのだ。
ところで、なぜ僕は単行本の惹句を書き写すことができたのか。じつは『赤頭巾』刊行時に小学一年生だった僕は、四部作をすべて単行本で持っている。正確に言うなら、「薫くん」と同世代の叔母が若い頃に買いそろえていた四冊を譲ってもらったのである。「『薫くん』ならあんたでも読めるけん、あげるわ」。うるせえな。でも実際、一気に読めた。大学に入るか入らないかだったから、一九八一年前後。『赤頭巾』のビニール装は相応に古びていたが、『青髭』はまだピカピカした新しさを残していた頃のことだ。
以来三十年ほどの歳月が流れた。その間、四作を通読したのは、それぞれ二回か三回――「愛読書です」とは言えない。物語を克明に覚えているというわけでもない。
ただし、忘れ去っているのではない。たとえ物語の断片でも、いや断片だからこそ、ふとしたときに思いだすことがある。それも、最初から「この作品の、この場面」としてよみがえるのではない。書棚の前に立って、作品名が浮かばない断片を「あれはなんだっけ?」と頭の中で転がしながら、目星をつけた本をぱらぱらめくっているうちに「ああ、そうか」と答えに行き着く、そういうことが「薫くん」シリーズは特に多いような気もする。
たとえば、またもや「ぼくは時々」――そういえば、と思うのだ。
そういえば、爪を剥がした足の親指を小さな女の子に踏まれる場面があった小説って、なんだっけ? そういえば、男は朝勃ちしたペニスが邪魔になるから目を覚ましてもすぐには体を起こせないんだという、ぼやきから始まる小説って、あったよなあ。そういえば、カノジョがその気になっているのに「だめだよ」と誘いを拒んでズボンの中で射精してしまう奴って、なんの小説に出てたっけ。そういえば、新宿の紀伊國屋書店のエスカレーター脇で始まる小説は……。
すべて「薫くん」シリーズである。どの問いがどの作品に呼応するのかは、どうか実物にあたって確かめてみていただきたい。ピーヒャラ、ドンドン。
格好よく言えば、血肉になっている、ということなのだろうか。薫くんの物語は、じっくり煮込んだポタージュのように、たとえ物語としてのかたちは溶けて消えてしまっても、その旨みはむしろ凝縮されて、読み手の胸の中に残っているのかもしれない。
実際、今回あらためて四作を通読してみると、薫くんの語る言葉と自分自身との馴染み具合に驚かされる。固有名詞やその他もろもろ、確かに二〇一二年の「いま」との距離を感じる箇所はないわけではない(冒頭に掲げた『赤頭巾』の書き出しなんて、ケータイの時代ではありえないものね)し、そもそもけっこう理屈っぽくて衒学めいたやり取りも少なくない。だが、それらはいくらでも補正、あるいは無視が可能である。とにかく読んでいる最中には、薫くんの語り口に素直に身をゆだねておけばいい。すると、びっくりするほどすんなり言葉が染み入っていくことに気づくはずだ。浸透圧とかイオンとか、難しいことはよくわからないのだが、ほら、スポーツドリンクを飲んだときの、腹に溜まる間もなく染み込んでいく、あの感覚と同じなのである。
さらに、今回読み返して初めて思ったこと――ひたすら休みなくおしゃべりをつづける薫くんは、結局のところ、四編の物語でいつも、たった一つの決定的な言葉を探しているのではないか?
〈ぼくは言葉を探し、さまよい、迷い子になり、そしてどうしてもつかまえられぬままもどかしく繰返した〉(『赤頭巾』)
〈ぼくは言いかけたけれどすぐ口を噤んだ。ぼくの胸の中にはさまざまな思いが溢れていたが、ぼくにはたった今のぼくが、何かとてつもなく素朴で馬鹿げた夢のような言葉を口走りそうなそんな気がしたからだった〉(『青髭』)
あんなにたくさんの言葉を費やしていながら、違う、たくさんの言葉を費やしたからこそ、薫くんは、届かない言葉、語られなかった言葉、言葉のかたちを持たない言葉を求める。「薫くん」四部作は言葉探しの物語でもあったのだ、と僕はいま思う。そして、その言葉探しの物語が、ツイッターの時代に新潮文庫入りしたことを、あらためて笛を吹き、太鼓を叩いて祝したいのである。
庄司薫さんは一九三七年四月生まれ。『赤頭巾』が新潮文庫から刊行されてほどなく、満七十五歳になる。ちなみに日比谷高校時代の同級生は古井由吉さん、塩野七生さん。けれど、あたりまえの話だが、書店の棚は作家の年齢別になっているわけではない(「古井由吉」と「古川日出男」が隣り合っている光景を見るたびに、僕は文学の強さを実感する)。すべてが「現役」である。だからこそ、思う。伊坂幸太郎さんや舞城王太郎さんを読んできた若い読み手に、ケータイを使って饒舌につぶやきつづける無数の語り手に、薫くんの物語はどんなふうに響くのだろう……。
ああそうだ、最後にもう一つ、笛と太鼓を。
今回の新潮文庫入りにあたって、庄司薫さんは『赤頭巾』に新たな後記『あわや半世紀のあとがき』を寄せている。
その書き出しは、〈ぼくは時々〉――なんだぜ。
(しげまつ・きよし 作家)
著者プロフィール
庄司薫
ショウジ・カオル
1937(昭和12)年東京生れ。日比谷高校を経て、東京大学法学部卒。1958年、『喪失』(本名の福田章二で執筆)により中央公論新人賞受賞。1969年『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞受賞。著書に『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』『狼なんかこわくない』『ぼくが猫語を話せるわけ』『バクの飼主めざして』がある。
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