井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室
649円(税込)
発売日:2001/12/26
- 文庫
作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。――井上ひさし
まず原稿用紙の使い方、題のつけ方、段落の区切り方、そして中身は自分の一番言いたいことをあくまで具体的に──。活字離れと言われて久しい昨今ですが、実は創作教室、自費出版は大盛況、e-メールの交換はもう年代を問いません。日本人は物を書くのが好きなんですね。自分にしか書けないことを、誰が読んでも分かるように書くための極意を、文章の達人が伝授します。
書誌情報
読み仮名 | イノウエヒサシトヒャクヨンジュウイチニンノナカマタチノサクブンキョウシツ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 288ページ |
ISBN | 978-4-10-116829-6 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | い-14-29 |
ジャンル | 文学賞受賞作家、言語学 |
定価 | 649円 |
書評
波 2002年1月号より 書けない悩み 井上ひさしほか著・文学の蔵編 『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』
今日と明日のあいだに……と、井上ひさし先生の『作文教室』の、一四二番目の受講者になったつもりで、私もひとつ作文を書いてみた。テーマは、「自分が今いちばん悩んでいること」。先生のご出題である。「四百字」というのも、ご指定。
檀 ふみ
原稿が書けない。
それでも書かなくてはならない。
人の世には「締切り」という厳しい掟が存在するからである。「ギリギリです。サバはよんでおりません」と、やさしい顔で冷酷無情なことを言う編集者がいるからである。
しかたなく机に向かう。脳味噌の上五十センチほど、手を伸ばせば届きそうなところに、何やらモヤモヤしたものが浮かんでいる。書きたいことは、そこにある。だが、探っても探っても、なんの手ごたえも感じられない。時間だけがむなしく過ぎていく。
ここは鳥取、弓ヶ浜の宿。明日は早朝からロケである。早めに休んでおかなければ、お肌に悪い。そう、私の本業は女優なのだ。
なのになぜ、会食を早引けし、温泉にも入らず、原稿に苦しんでいるのだろう。
グズグズとそんな溜め息をついているうちに、ああ、早くも「明日」は、「今日」となってしまった……。
「自分の書きたいこと、考えを、四百字できっちり書くということ。これも大事な勉強なんです」
書きながら、悲しく思い出していた。
小学校の作文の授業では、わずか一時間足らずの間に、四百字詰め作文用紙二枚を、難なく(でもなかったが)埋めていたものなのに、知識も語彙も経験もあのころより数段豊富なはずの今、たった一枚の作文に、なんでこんなにてこずらなきゃならないんだろう。
「書くんなら、一生懸命、書きなさい」
私の父は、そう言った。
「こういう、イイカラカゲンなものを書いちゃいけません」
と、あるタレントさんの書いた文章を示しての言葉だった。
イイカラカゲンとは、父が好んで使った言葉である。「いい加減」に、ほんの少し「いらだち」が混じっている。当時の私は、女優を始めたばかりだった。「父親が檀一雄だから」と、場当たり的な、それこそイイカラカゲンな原稿の依頼が、いくつか娘にあることを、知っていたのだろう。
「書く」ことに関して父が何か言ったのは、それが最初で最後である。「一生懸命、書きなさい」というのは、だから、遺言かもしれない。
だが、何をもって「一生懸命」というのか。
しかたなく、字を丁寧に書くことと、字数を指定に合わせることを、私の「一生懸命」とすることにした。
というわけで、「四百字」と言われれば、ピッタリ四百字で書く。井上先生に言われなくても、そういう努力は、営々と積み重ねてきている。だが、「どう」書けばいいのかは、一向に分からない。
『作文教室』の後半には、『仲間たち』の作文が、いくつも収められている。井上先生の添削、感想文つきである。
これが、みんな、いい。「悩み」は人それぞれで、便秘や脂肪の悩みがあるかと思えば、重い人生の悩みもある。四百字の中には、なんて広い宇宙があるのだろう。その一つ一つの文章に対する、先生の褒め方、励まし方も、また、心憎いばかり。
「作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね」
と、先生はおっしゃる。
しかし、人の心に響く文章を書くためには、自分の「長期記憶」に磨きをかけねばならない。長期記憶とは、人が、長い時間をかけて、収穫し、蓄えた記憶のこと。人生そのもの。
「考えて、考え抜いて、もうこれならどこからでも書ける、というところまでちゃんとやったうえで、いったんそれを脇に置いて……」書き始める。すると、長期記憶の中から、とんでもないものがヒュッと出てくることがある。それが実は、文章の値打ちという。
要するに、「一生懸命、書く」こととは、「イイカラカゲンに生きてちゃいけません」ということなのだろうか。
となると、私の「書けない」悩みは、いっそう深刻である。
▼井上ひさしほか著・文学の蔵編『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』は、新潮文庫1月刊
著者プロフィール
井上ひさし
イノウエ・ヒサシ
(1934-2010)山形県生れ。上智大学文学部卒業。浅草フランス座で文芸部進行係を務めた後、「ひょっこりひょうたん島」の台本を共同執筆する。以後『道元の冒険』(岸田戯曲賞、芸術選奨新人賞)、『手鎖心中』(直木賞)、『吉里吉里人』(読売文学賞、日本SF大賞)、『腹鼓記』、『不忠臣蔵』(吉川英治文学賞)、『シャンハイムーン』(谷崎潤一郎賞)、『東京セブンローズ』(菊池寛賞)、『太鼓たたいて笛ふいて』(毎日芸術賞、鶴屋南北戯曲賞)など戯曲、小説、エッセイ等に幅広く活躍した。2004(平成16)年に文化功労者、2009年には日本藝術院賞恩賜賞を受賞した。1984(昭和59)年に劇団「こまつ座」を結成し、座付き作者として自作の上演活動を行った。
文学の蔵
ブンガクノクラ