女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第22回R-18文学賞 
選評―窪美澄氏

縮こまらず大きくはみ出して

窪美澄

●『祝福の夜明け』
 ある不幸を描いたものを読んで、「いや、もっとひどい不幸が世の中にはあるよ」という読み方はできるならしたくはない(そこには地獄が広がっているだけなので)。けれども、主人公が母を恨む原因のひとつとして「成人式の日、母親が会場まで車に乗せていってくれなかった」というのは、やはり弱いのではないかと思う。父に、あるいは友人の家族などに、必死になって頼めばよかったのではないか。
 全体を通してみても、主人公の必死さ、というものがどうにも伝わってこない。主人公だけではなく、登場人物はどこか虚ろだ。愛ちゃん(もっとひどいところにいる、と予想される)への視線もどこか平坦に感じる。彼氏との関係の終わりも書かなくてよかったのだろうか。文章表現として美しい描写もあったが、まずは生身の人間を描くということに力を注いでほしい。

●『子供おばさんとおばさん子供』
(編集部注『ゴーヤとチーズの精霊馬』に改題)
 文章は抜群に上手く、四百字詰め原稿用紙五十枚の長さに入る物語、というサイズ感もよく理解されている。途中に主人公による推測はあるけれど、穂乃花がどうして自分の父方の祖母に家事を習おうと思ったのかというその理由を、もう少し掘り下げてみてもよかったのではないか。
 おばさん子供なので、穂乃花ができすぎた子供である、というのはその通りなのだけれど、その像を穂乃花という少女に、少々強引にはめこみすぎてはいないだろうか。それによって物語が綺麗ではあるけれど、小さくまとまってしまった感も否めない。
 最も気になったのは(改題前の)タイトルである。このタイトルを見れば私はどうしても山本文緒さんの名作を思い浮かべてしまう。タイトルは作品のパッケージであり、キャッチコピーでもある。投稿する最後の最後までこれで良いのか? 同じタイトルはないか?(ネットで検索すればよし)と熟考を重ねてほしい。

●『ラ・ライク・ラブ』
 とてもおもしろく読んだ。五十枚以内という規定のなかで、このテーマに挑戦した勇気を褒め称えたい。ラストシーンまでの盛り上げ方は読者として作者の手のひらで転がされているようで心地良かった。性描写もきちんといやらしい。
 この三人は狂っていていいのだが、あえて言うならその行為、生き方に対する戸惑いみたいな感情を見てみたかった。
 また、彼らに対する世間の声の描かれ方が類型的すぎるところも気になった。煙に巻くような感じでわかりにくくしているのかもしれないが、ところどころ、この台詞は誰が話しているのか不明なところがある。細かいことかもしれないが、「(台詞)」の前後に例えば、「誰が口を開いた」と書くだけで読み手がひっかからず、物語のスピード感もラストシーンまで持続することができたように思う。

●『帰り道もあかるい』
 主人公も友人の友梨も義母の路子さんも、今、いろんなことに配慮して発言するとこういう台詞を吐きますよねーという言葉を口にする。うん。そうですね。それは正しい。終始、正しいのだが、この作品を読んでいる間、私の心は遠くには飛ばなかった。
 書き手が自分よりも年齢を重ねた、年上の女性を描くとき、(私もそうなのですが)どうしてもある型にはめてしまう傾向があるように思う。実際のところ、令和の六十四歳の女性はもっとぶっ飛んでいるのではないのだろうか。年上の女性だけではなく、嫁だから、妻だから、こういう考えでこう行動し、今どきはこういう言葉を口にしがちですよね、というところから一度自由になって、物語をリスタートしてみてはどうだろうか。

●『洗いたい靴下』
 今回、スナックが出てくる作品がふたつあったのだが、この作品のほうがスナックという場所を描けていると思った。性描写もうまい。だが「初体験の男がその夜に死んだ」という悲劇に求心力があまり感じられなかった。主人公が自主的に動かないので、それぞれの場面のつながりがどうにもスムーズではなく、物語が進んでいないように思えてしまう。
 ラストの彩花の登場も唐突に感じられた。なんらかの悲劇をフックに物語を進めていこうとするとき、主人公の言動に書き手が酔ってしまっては、読み手は置いていかれる。小説を書くときには、自らのなかに役者だけではなく、冷徹な演出家、監督も飼い慣らしておくべきだと思う。

●『鬼灯の節句』
 貧困を辺縁から描いていこうとするところに良さを感じながらも、どうにも物語全体が絵空事のように感じる。最低賃金六百五十円、PS3、『プラダを着た悪魔』のDVDなどのアイテムからこの物語の舞台は多分二〇〇〇年代(〇七、〇八年くらい?)なのだろう、と想像されるが、祖母が七十代と仮定して、昭和初期生まれの彼女にとって鬼灯は堕胎に使われるものとして果たして日常的なものだったのか、という疑問は残る。それならば、あえて、時代を逆算されるようなアイテムを出さずにファンタジーの世界として描く方法もあったのではないか(改稿されたようです)。
 描かれてはいるが、どこか妊娠という事実に打ちのめされているという主人公の苦悩が肉迫してこない。そんな彼女が唯一、恵子に叫び返すシーンがあり、ここは物語の山場としてとても大事なシーンだと思ったけれど、この台詞で良かったのだろうか。
 また、恵子やおばあさんが語り過ぎているとも思った。彼女らの台詞が物語の結論にもなってしまってはなんとももったいない。とはいえ、ぼっとん便所やじゅんさいをとるシーンなど、生を存続させることで生まれる穢れや、若いじゅんさいの芽にどこか胎児をイメージさせるところなどは素晴らしく、その技量をこの作者ならば物語の骨子にも活かせるのでないかと思った。

 コロナという世界的な疫病が流行していたこの何年かは、あれに触れてはいけない、あそこにも配慮しなくてはいけない、という内圧が高まった時期でもあったように思える。私自身も内側に固く縮こまり、書く物語が小さくなってしまった、という自覚がある。だから、この選評はすべて自分自身にきつく言い聞かせる気持ちで書いている。
 物語を書くときには、書き手のなかに冷徹な監督、演出家は必要だけれど、演者である登場人物はもっともっとそこからはみ出していいと思う。完成度はどの作品も高かった。けれど、今を忘れて物語のなかにのめり込ませるような求心力を持った作品はなかった。線のなかを丁寧に塗りつぶしていくような作品でなくていい。読み手が不快感を抱くのでは? という罠を怖がらないでほしい。「これが私の、今の全部」というくらいの気持ちで作品にすべてをぶつけてください。