女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第21回R-18文学賞 
選評―窪美澄氏

高いバーを軽々と超えて

窪美澄

 初めて選考委員というものをやらせていただいて、誰かの作品を選ぶ、選評する、ということがこんなにも恐ろしいことだと思い知った。
 なぜなら、最終選考に残った五作品のレベルがあまりに高かったからだ。
 自分がデビューした賞なので、言いにくいことではあるが、これまで大賞をとられた作品の文章力のレベルの高さは、ほかの賞から頭ひとつ、ふたつ出ていると常々思ってはいた。けれど、今回の五作品はどれも、なにかの小説誌の短編特集に組み込まれていてもなんら不思議ではなかった。
 文章力、人物のキャラ設定、物語の運び、構成力……そこを選考会であえて論じる必要がないほど、小説としての基礎体力は高かった。その高いバーを軽々と超えた各候補作の、何に着目したか。それぞれの作品で語っていきたい。

●『わらいもん』
 やや会話文が多いのかも、という気もしたが、それでも、その会話をもっと読みたい、という衝動にかられた。そこはかとない哀しみやおかしみ、というものが作品全体から滲み出ている。一見、脱力しているように見えて、物語の構成力は緻密で、推進力は強い。ただ、本当に申し訳ないのだが、私自身がお笑いにくわしくはないので、登場する焼き鳥バタフライのおもしろさが理解できず、小説のなかの漫才シーンに笑うことができなかった。それでも、笑いを描くこと、しかも高校生が漫才を作り、演じる、という描写はとてつもなく難しいが、あえて、そこに挑戦した作者には拍手を送りたい。
●『ユスリカ』
 タイトルがまず秀逸である。ただ、「多様な生き方」「ダイバーシティ」という言葉が幾度か登場するが、その言葉が物語にうまく混ざりきれていない気がした。この言葉を使わずとも、この物語のおもしろさは発揮できたはずだ。墓参りという地縁、血縁を象徴するような行動との比較があるのかとも予想したが……。とはいえ、きららのキャラは、ずば抜けておもしろく、後半、物語がもっと暴走して、作者も予想しない方向に広がっていく可能性は、幾通りもあったのではないかと思った。
●『海のふち』
 鮮魚市場のシーンも春江のキャラも抜群にいい。ちゃんと潮の匂いに満ちた場所を描けている。すでに連作短編の長い構想があるのではないかと思ってしまったのは、この端正な作品にやや整いすぎた弱さを感じてしまったせいかもしれない。磨きあげた作品だというのは十分に伝わった。くり返すようだが、そこで削ぎ落としてしまったものもあるのではないか。一見無駄だ、と思える文章のなかに物語の芯が含まれている、ということも多い。だが、これも、この作品に「あえて言うなら」の範疇である。この先をもっと読んでみたい、という感想をいちばん強く持った作品でもあった。安定感という意味では五作品のなかで一番であった。
●『いい人じゃない』
「あの人、いい人じゃない?」(肯定)と世間で言われているような人が「いい人じゃなかった」と反転することを描いていて、なんとも小気味良い作品なのだが、もしかしたら、書き手がその構成にあまりにこだわり過ぎてしまったのではないか、という感想を抱いた。遠山のキャラはすばらしいが、マルチ、というのがちょっとありきたりな気がしてしまったのも事実。それ以上に、彼女の破天荒な悪行ぶりを、そして、それに翻弄される美沙をもっと読んでみたいという気になった。
●『救われてんじゃねえよ』
 そして、今回大賞に選ばれたのがこの作品である。
 五作品のなかで最も殺傷力の高い文章を書かれる方だった。そういう方がこのテーマで絶望を描くのだから、読み手にも覚悟がいる。プロの書き手であったら、ラスト、かすかな希望や光でお茶を濁したかもしれない(あるいは編集者から言われて)。
 でも「救われてんじゃねえよ」である。「救ってんじゃねえよ」と書き手にいい、「救われてんじゃねえよ」と読み手に絶叫しているのである。
 どうしようもなく書かざるを得ない衝動を持った方なのだと思う。
 ただ、ほんの一瞬、「今、こういう作品を真っ正面から受け止めることのできる読み手が、どれくらいこの世界にいるのだろう」と思ってしまった。そんなの余計なお世話だよ、と言われてしまいそうだが、読み手の胆力を問うような緊張感と切れ味をこの作品は内包しているからだ。また、こういう作品は書き手の内側も削いでいくと私は思う。そんなことまでも心配してしまった。
 最終選考に残り、大賞をとったからには、必ず一冊の本に仕上げてほしいし、小説家としてできるだけ長い間、活躍してほしいと思っている。そこまで考えてしまったのは、この方がすでにゴールテープのその先を走っているからである。デビュー作は怖い。自分でも意識しないものが、にじんでしまうことが多い。いつか「救われてんじゃねえよ」と自分自身に言う日が来るかもしれない。それでも、書き続けてほしい。そう強く思った。

 選考を終えて、選評を書いている今も、これでよかったのか、と思う日々が続いている。
 自分の過去を振り返ってみても、どれほどの熱量で皆さんが応募したのか、それがわかるからだ。「私の作品のことなどまったくわかってない」と罵倒してくださってかまわない。けれど、私たちは見つける。それは光に透かしてやっと見えるほどの細い糸かもしれない。それでも、私たちは必ず見つけてみせる。
「さあ! 次の作品を書こう」と簡単に思えないことも知っている。書き始めても、「いったい賞をとって、小説家になってなんになるの⁉」と真顔になることもあるだろう。
 正直なことを言えば、この時代、小説家になっても、人生が反転するようないいことばかりが起こるわけではない。むしろ逆のほうが多いかもしれない。小説を書かなくてもいい人生、そのほうが、幸せに生きていけるのかもしれない。それでも私は書く。書かないと生きてはいけない。そういう人の登場を私は待っている。そして、もっともっと徹底的に私を打ちのめしてほしい。