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沢木耕太郎『天路の旅人』

序章、第一章全文公開

序章 雪の中から

 いまから四半世紀前の初冬のことだった。
 ある寒い日の午後、私は東北新幹線に乗り、東京から盛岡に向かっていた。
 仙台を過ぎ、盛岡に近づくにつれ、重く垂れ込めていた空から雪がちらつきはじめた。
 それにぼんやり眼を向けているうちに、不意に胃の辺りが収縮するような感じを覚えた。
 痛みとは違う。仕事で初めての人を訪ねるとき、その直前に決まって味わうことになる、一種の緊張感からくるものだ。
 私は、その日の夕方、盛岡で初めて会う人を訪ねることになっていた。
 確かに、いつでも、初めての人と会うときは緊張する。その人がどのような人なのか、どのように話が流れていってくれるのか。何年、何十年と、人と会うことから始まる仕事を続けながら、いつまでも慣れることのない緊張をする。

 その日、私が会うことになっていたのは、西川かずという名の、あと二、三年で八十歳になろうかという老人だった。
 西川一三は、第二次大戦末期、敵国である中国の、その大陸の奥深くまで潜入したスパイである。当時の日本風に言えば諜報員だが、西川は自らのことを「密偵」と呼んでいる。
 二十五歳のとき、日本ではラマ教といわれていたチベット仏教のもう人巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古を出発するや、当時の中華民国政府が支配するねい省を突破し、広大なせいかい省に足を踏み入れ、中国大陸の奥深くまで潜入した。
 しかも、第二次大戦が終結した一九四五年(昭和二十年)以後も、蒙古人のラマ僧になりすましたまま旅を続け、チベットからインド亜大陸にまで足を延ばすことになる。そして、一九五〇年(昭和二十五年)にインドで逮捕され日本に送還されるまで、実に足掛け八年に及ぶ長い年月を、蒙古人「ロブサン・サンボー」として生きつづけてきたのだ。
 その壮大な旅の一部始終は、帰国後自らが執筆した『秘境西域八年の潜行』という書物に記されている。
 この著作は、その旅の長さにふさわしく、分厚い文庫本で全三冊、総ページ数で二千ページに達しようかという長大なものである。

 私が西川一三という人物に興味を覚えたのは、密偵や巡礼としての旅そのものというより、日本に帰ってきてからの日々をも含めたその人生だったかもしれない。
 戦争が終わって五年後に日本に帰ってきた西川は、数年をかけて『秘境西域八年の潜行』を書き上げると、あとはただひたすら盛岡で化粧品店の主としての人生をまっとうしてきたという。
 そこには、強い信念を抱いて生きてきたに違いない、ひとりの旅の達人、いや人生の達人がいるように思えた。
 会ってみたいと思うようになって、何年かが過ぎていたが、岩手のいちのせきに仕事で行ったとき、地元の新聞の「戦後史を考える」というような連載記事の中に、たまたま西川のことが出ていた。そこには、西川の「ひめかみ」という店の名前が載っていて、記憶に残った。
 それからしばらくした初冬のある日、東京の仕事場で、どういうつもりもないまま、その店名から電話番号を調べると、すぐにわかって逆に驚かされた。そして、思った。これはいい機会なのかもしれない。電話を掛け、もし許されるなら会わせてもらおうか……。
 思い切って電話をすると、すぐに、くぐもった声の男性が応対に出てくれた。
 それが西川一三だった。
 私は、突然電話を掛ける非礼を詫びたあとで名前を名乗り、自分の仕事について説明をし、できればお会いできないだろうかと訊ねた。しかし、そこでは、注意深く「取材」という言葉を使わなかった。実際、それが何かの具体的な仕事につながるかどうかわからなかったからだ。わかっていることは会いたいということだけだった。会って、話をしてみたい。それを具体的にどうしたいのかまではわかっていなかった。
 盛岡に伺うので暇な時間にお会いいただけないか。私が頼むと、西川はいとも簡単に引き受けてくれた。
「いいですよ」
 だが、それに付け加えてこう言った。
「私には休みというのがないんです。元日だけは休みますけど、一年三百六十四日は働く。だから、誰かのために特別に休んだり、時間を取るというわけにはいかないんです。毎日、午前九時から午後五時までは仕事をします。それでよければ、いつでもかまいません」
 私は、一年のうち一日しか休まないと淡々とした口調で言う西川に一瞬言葉を失いかけたが、すぐに気持を立て直して訊ねた。
「では、午後五時以降ならお会いいただけますか」
 西川は、その時間帯なら問題ないと言う。そこで、私は今週の土曜の夜はいかがだろうかと訊ねた。それに対しても、西川はまったく問題がないと答えた。
 私が、午後五時以降に店を訪ねるつもりで、盛岡駅からの道順を訊ねると、西川は言った。
「それだったら、盛岡駅に着いたところで電話をしてください。こちらから駅まで出向きますから」
 それは申し訳ないからと固辞したのだが、その方が面倒が少ないからと言われて、従うことにした。

 盛岡に近づく新幹線の中で、私はしだいに暗くなっていく窓の外を眺めながら、実際に会う前から西川に威圧感のようなものを覚えていることに気がついていた。
 若いとき、戦中から戦後にかけての混沌とした一時期、たったひとりでアジア大陸の中国からインドまでの広大な地域を旅してきた人物。そして、その旅については長大な一編を著しただけで、あとはひっそりと東北の一都市で商店主として人生を終えようとしている。
 そこには、鋼のように硬質な、あるいは胡桃くるみの殻のように堅牢な人生が存在しているかのように思える。立ち向かっていっても、簡単にはじき返されてしまうのではないだろうか……。
 午後五時過ぎ、盛岡駅に着いた私は、改札口を出るとすぐ西川に電話をした。
 当時はまだ携帯電話を持っていなかったはずだから、構内の公衆電話から掛けたと思われる。
 ベルが鳴るとすぐに出てくれた西川は、私がいる改札口を確認すると、これから向かうので少し待っていてくれと言った。
 互いに初対面なのでまごつくかもしれないと心配していたが、電話を切ったあとで、改札口付近で待ち合わせをしているような人がまったくいないことに安心した。これなら間違えることはないだろう。
 十五分くらい待っただろうか、ジャンパー姿の長身の男性がこちらに歩いてくるのが見えた。それが西川だということはすぐにわかった。化粧品店の店主というより、町工場の親父というような雰囲気だったが、単に長身だというだけではない独特の存在感があった。私は駆け足で近づき頭を下げた。
「沢木です」
「西川です」
 雪の中を歩いてきたのか、溶けかかった雪が頭髪にいくつかついている。
 西川は、八十歳近いというのに、老人と言ってしまうのはためらわれるほど元気そうだった。
 身長は百八十センチの私とほぼ同じくらいある。しかも、体つきは、私よりがっちりしている。大正生まれの人としては、かなりの大男の部類だったろうと思える。
 その上、軽快なジャンパー姿であることがいかにも仕事においての現役感をかもし出していた。
 どういうところで話をしたらいいか。私は新幹線の中で考えていたとおりのことを提案した。
「一杯飲みながらというのはいかがですか」
 西川が酒好きなことは『秘境西域八年の潜行』を読めばすぐにわかる。問題は、その若いときの好みが、としを取っても変わっていないかどうかということだ。
 私が提案すると西川はうなずき、この構内に居酒屋風の和食屋があるはずだと言う。私は西川に案内してもらい、その店に行くことにした。
 店は、旅行客が目当てなのか、市内の住人を相手にしているのか曖昧な、いささか中途半端な店だったが、逆に、気の置けない安直さがあった。
 四人掛けのテーブルに向かい合って座った私たちは、最初から酒を飲むことにした。西川が、ビールは飲まないと言ったからだ。
 一合入りの銚子をそれぞれ貰い、手酌で飲むことにした。
 それを決めてから、メニューを渡してさかなを選んでもらおうとしたが、西川は何もいらないと言ってメニューを見ようとしなかった。のちにメニューを見ようとしないのは、薄暗い店内では視力が弱いためほとんど見えないからだと知るようになるが、そのときは遠慮をしているのかもしれないと思った。何も食べずに酒だけというのは店にも悪いような気がするし、私がどちらかといえば酒はおいしいものを食べながら飲みたい口だということもあった。
 そこで、私はメニューをゆっくりと読み上げ、その中の二、三品を西川に選んでもらおうとした。
 すると、いくつも読み上げないうちに、西川が言った。
「もずくと揚げ出し豆腐をお願いします」
「その他には?」
 そう言いながら、魚料理の欄を読み上げようとすると、西川はそれをさえぎるように言った。
「それだけで充分です」
 私は一瞬、虚をつかれたが、注文を取りにきた若い女性の店員に私も西川と同じものを頼み、さらに刺身の盛り合わせを貰うことにした。もしよければつまんでもらおうと思ってのことだったが、西川は最後まで刺身に箸はつけず、ほとんどつまみなしに酒を飲みつづけた。

 酒を手酌で飲みながら、とりとめもない世間話をした。
 私の流儀として、かりにそれが仕事の場合であっても、最初に会ったときには、いわゆるインタヴューをしない。そのときの雰囲気のまま、流れる方向に流され、気ままな会話をする。そして、いちど会ったという親しみをつちかったあと、二度目に会ったところから本格的なインタヴューを開始するのだ。
 それに、西川に会ってもらったのも、具体的な執筆の予定があり、それに沿ってインタヴューをすると決めてのことではなかった。だが、それでも、私が訊ね、西川が答えるというかたちになるのは当然だった。
 会う前から、いくつか訊きたいことはあった。
 まず、どうして盛岡だったのかということである。山口県の出身である西川が、どうして遠い岩手県の盛岡で化粧品店の店主をしているのか。
 だが、それに答えてくれる前に、自分の仕事は化粧品店の店主ではない、と言われてしまった。
 なるほど、聞いてみると、一般の客に化粧品を販売する化粧品店ではなく、岩手県内の各地にある美容室や理容室を相手に、パーマやカットなどに必要な用具や消耗品を直接卸す店を経営しているのだという。
 ところで、どうして盛岡だったのかと、私はあらためて訊ねた。
「たまたま、です」
「具体的には」
「仕事があるということで、岩手の人に誘われて、まずみずさわに来ました」
「いまと同じ仕事ですか」
「そうです」
「なぜこの仕事を」
「食べるために……」
 そこまで言うと、途中で言い換えた。
「生きるために」
 そこに料理が運ばれてきた。
 刺身の皿を中央に置き、私は言った。
「一緒につまんでいただければ」
 しかし、西川は、軽く頷いたあとでこう言った。
「でも、つまみはこれだけあれば充分です。普段からあまりいろいろなものは食べないんです」
 そして、付け加えるように言った。
「昼も、毎日、同じものを食べています。カップヌードルを一杯とコンビニの握り飯を二つ」
「毎日?」
「毎日」
「三百六十四日?」
「三百六十四日」
「夜は?」
「店の帰りに居酒屋に寄ります」
「寄って?」
「酒を二合」
「つまみは?」
「ほとんど食べません」
 夜は家で何を食べるのかと訊くつもりだったが、昼はカップヌードルと握り飯二つ、夜はつまみもなく酒を二合という答えに圧倒され、つい訊きそびれてしまった。

 酒が入り、私の舌もいくぶん滑らかになりかかってきた。
 その数年前、東京放送(現・TBS)の「新世界紀行」というテレビ番組で西川が取り上げられたことがあった。西川一三が歩いた土地を辿たどりつつ旅をするという全四回の番組だった。私が西川一三の名を初めて知ったのもそれを通してのことだった。
 だが、その番組では、旅の案内人として民族学の研究者風の別の男性が立てられていた。番組的には当人の方が面白いはずだが、そのときは、西川が老齢のため、案内人としての役に立たないからだろうと思っていた。
 しかし、実際に会ってみると、壮年の人と変わりないくらい、かくしゃくとしている。これだけの壮健さがあれば、充分に旅に耐えられたはずだ。どうして本人を案内人として立てなかったのだろう。
 テレビ局側からそのような依頼はなかったのか。私が訊ねると、プロデューサーに同行を求められたが断ったのだと西川は言った。仕事があるので休めない、と。出演料は、何カ月分もの稼ぎに匹敵するような額を提示してきたが、相手にしなかったとも言う。
「どうしてです」
 私が訊ねると、西川は斬って捨てるように言い放った。
「一度行ったことがあるところにまた行っても仕方がありませんからね。行ったことのないところなら別ですが」
 面白いな、と私は思った。面白い。そして、この人について書いてみたい、と強く思った。
 それにはまず、あの『秘境西域八年の潜行』の旅についての理解を深めることから始めなくてはならない。一通り読んではいるが、その旅が、自分の頭の中で映像として再現できるほど読み込んではいない。
 これから、何回になるかわかりませんが、あの旅についての話をうかがわせていただけませんか。私が頼むと、別にかまいません、と西川は答えた。三百六十四日、午後五時過ぎならいつでもかまいません、と。

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第一章 現れたもの

第一章 現れたもの

1

 西川一三と初めて会ったのは十二月のことだった。私は、翌年の一月から、一カ月に一度、二泊三日の予定で盛岡に通うようになった。
 土曜の午後に東京を出て、その夜と翌日の日曜の夜に盛岡で西川と会い、話をしてもらう。そして月曜の朝に東京へ戻る。
 週末にしたのは、もっぱら私の事情だった。三百六十四日働くことにしている西川には平日も週末もなかったが、私の方には、突発的にどんな用事が入るかわからない平日と違い、土曜と日曜なら東京を離れていてもいいだろうという安心感があったからだ。
 二度目の盛岡では、市内の中央を流れる北上川に面して建つビジネスホテルに泊まることにした。駅から北上川を渡って繁華街へと続く通りに開運橋という橋が架かっており、ホテルはそのたもとにあった。
 幸いなことに、ホテルの地下に「開運亭」という名の小さな和食の店があり、そこには小上がりの座敷があった。私たちは、そこに上がり込み、開店時間に近い午後五時半から閉店時間の九時近くまで、酒を飲みながら話を続けた。
 以後、そのホテルに泊まり、その店で飲みながら話すことが決まりのようになった。
 私たちは、常に入店するのが早かったので、小上がりの座敷を借りるのに支障がなかった。しかも、冬のスキーシーズンが終わると土日のホテルの宿泊客はぐっと少なくなり、その和食の店全体がほとんど貸し切り状態になった。
 唯一困ったのは、バックグラウンド・ミュージックとして琴による和風の音楽がエンドレスで流されているため、西川の話を録音しているテープがかなり聞き取りにくくなってしまうことだった。
 その店には二合徳利があったので、それぞれ一本ずつもらい、手酌で飲むというのが常だった。西川が一日二合にしていると言っていたからだ。しかし、回数が重なるにつれ、互いにもう少し飲みたくなり、二合徳利をもう一本もらい、二人で分け合うということが多くなった。そして、時には、一本を半々というのではなく、それぞれさらに一本ずつもらい、互いが四合ずつ飲むというような夜もあった。
 そんなときは、話が終わり、ホテルのエントランスまで出て西川を見送ると、表に停めてあった自転車を曳いていくその後ろ姿が、少し酔っているのではないかと思えることもあった。

 毎月のその酒席では、西川の八年間の旅を、記憶によって順に辿り返してもらうことにした。『秘境西域八年の潜行』に書かれていないこともあるかもしれないと思えたし、また、書かれている文章だけでは微妙にわからないところも少なくなかったからだ。
 西川の書いた『秘境西域八年の潜行』は、その長大なページ数にふさわしく、訪れた土地のことも、出会った人々のことも、起きた出来事も克明に記されている。だが、なぜか旅の全体が把握しにくい。それは、一本一本の木々は枝や葉に至るまで丹念に描かれているのに、その木々が構成している森の全体が見えにくいというのに似ていた。木を見て森を見ない、という言い方があるが、『秘境西域八年の潜行』は、木は見せてくれるものの森をくっきりとは見せてくれない、とでも言ったらよかったかもしれない。
 私は「森」を見るために、西川の旅をこうする質問を重ねていった。
 だが、時として、旅から離れて、西川の仕事や店の話になるというようなこともなくはなかった。
 西川の店は大きな通りに面しているがあまり小ぎれいなものではなく、商品の入った箱などがぎっしりと積まれた乱雑なところだという。
「狭くて、汚い店です」
 西川はそう言った。
 だが、それも、あえて汚いままにしてあるということであるらしい。
「人はむしろ汚いくらいの方が安心するんです。通行人が道を訊くために店に入るのは、近隣の中ではうちが最も多いくらいのものでね」
 そして、自分を低いところに置くことができるなら、どのようにしても生きていけるものです、と言った。
 それを聞いて、私はほとんど反射的におくざきけんぞうのことを思い浮かべていた。
 かつて、正月の皇居で行われる一般参賀の際、群衆に紛れて昭和天皇に向かってパチンコ玉を発射して逮捕された元日本兵に、奥崎謙三という男がいた。彼は、戦場で空しく死んだ戦友の名を叫びながらパチンコ玉を発射したのだ。
「ヤマザキ、天皇を撃て!」
 と。
 私は、その奥崎に、逮捕され、懲役刑を受け、出所したあとで、バッテリーを商う神戸駅の近くの彼の店で会うようになった。店のガラス戸に「権力に対する服従は神に対する反抗である」と大書するなど、近隣の人から奇矯なふるまいをする人として眉をひそめられるような行動を取りつづけている奥崎は、しかし商売人として極めて真っ当な感覚を持っていた。
 あるとき、彼の『ヤマザキ、天皇を撃て!』という危険な本を、ほとんど独力で苦労の末に出してくれた出版社の編集者が、独立して小さな出版社を興すことになった。すると奥崎は、その編集者に、自分の本の版権を与えただけでなく、軍資金にと百万円をポンと渡し、こう言ったという。
「あんたは、商売というものがよくわかっていないのではないかと思うが、頭を下げるときにはしっかり下げなくては駄目ですよ」
 私は、西川の商売論を聞いて、奥崎のこの感覚と近いものを感じたのだ。

 西川は過去の旅について話すことをいやがってはいなかった。むしろ、月に一度、二晩にわたって酒を飲みながら話すことを楽しんでいるような気さえした。しかし、基本的には訊かれたことをポツポツと答えるだけで、自分から積極的に話すということはほとんどなかった。それは、本を書いた者として、読者と真摯に対応するという、いわば著者の義務を果たしてくれているだけのように思えることもあった。
 私は、毎月のように二日にわたって西川と会いながら、依然として二人のあいだに薄い膜のようなものがあるように感じていた。それは、端的に言えば、私に対してほとんど関心を向けていないというところに現れているように思えた。私が無限に質問を重ねながら、西川は私に何ひとつ質問をしなかったのだ。
 しかし、私は焦らずに待つことにした。そういうときは待つに限る。時間をかけて、ゆっくりと「逢瀬」を重ねていく。すると、いつか、状況が動き出す瞬間が来る。
 そして、実際にその瞬間が訪れたのは、最初の冬が過ぎ、春から夏に差しかかった頃のことだった。
 二人で辿り返している西川の壮大な旅も、日本の勢力圏にあった内蒙古から中国の青海省を経てチベットに入り、さらにヒマラヤの山塊を越えてインドに出るや、仏教の遺跡を廻りながら放浪するというところに差しかかっていた。
 西川は、カルカッタ(現・コルカタ)からガヤに出て、仏陀が悟りを開いたブッダガヤに向かうことになる。親しくなった巡礼者たちと、ガヤ駅で無賃乗車の夜行列車を降り、駅前の広場で夜が明けるのを待ったという。
「僕も、ガヤの駅前で野宿したことがあります」
 私が言うと、西川がごく普通の相槌を打った。
「そうですか」
 しかし、そこには微かに意外そうな響きがあった。
「インドも明け方は温度が下がるんですけど、土に温もりが残っていて寝るのにちょうどいいんですよね」
 さらに私が自分の旅を思い出しながら付け加えると、西川が訊ねてきた。
「巡礼を?」
 それは、西川が私に向かって発した初めての問いだった。
「いえ……」
 そう答えかけて、いや、あれも一種の巡礼の旅だったかもしれないと思い返し、私が二十代の半ばのときに行った、香港からロンドンまでの旅について簡単に話した。
 香港からインドのデリーまではさまざまな乗り物に乗ったが、デリーからロンドンまでは基本的には乗合バスだけの旅だった。
 私が、乗合バスによる通過国をひとつひとつ挙げていた、そのときだった。
「インド、パキスタン、アフガニスタン……」
 すると、西川が言葉を挟んだ。
「アフガニスタンに行ったんですか?」
 私が頷くと、どんな国だったか、とさらに訊ねてきた。
 そう言えば、西川は、インドを放浪したあと、パキスタンからアフガニスタンに向かおうとして、印パ紛争のため果たせなかった。パキスタンとの国境に近いインドのアムリトサルから引き返さざるを得なかったのだ。しかし、私は、西川にそれほど強い執着がアフガニスタンにあるとは思っていなかったので、驚かされた。
 どんな国だったかと訊ねられた私は、パキスタンからカイバル峠を越えてアフガニスタンに入ったあとの、ジャララバードから首都カブールに至るまでの夕暮れの風景の美しさについて語った。
 らくを引き連れた遊牧民の長い列が、ゆっくりと横切っていく砂漠。そこをくねくねと流れ、夕陽を映してキラキラと輝いている河。それらを取り囲むようにそびえている裸の山々……。
 そして、アフガニスタンの、砂漠というより土漠と言った方がいいようなこうをバスで走るとき、羊の群れを追っている牧羊犬たちが、バスを敵と認識して突進してくる姿の勇敢さに、胸が震えることがあったと話すと、西川は、自分も遊牧民の飼っている犬たちには何度も苦しめられたという話を始めた。とりわけ東チベットのカム地方を巡礼していたときは、集落に近づくたびに獰猛な犬たちに襲われ、持っている槍で必死に応戦しなければならなかったという。そして、自分もアフガニスタンには行ってみたかったと呟くように言った。
 かつて、テレビの「新世界紀行」の誘いには、一度行ったところに行っても仕方がないと断ったと聞いた。しかし、そのとき、行ったことがないところなら別だが、と付け加えたということを思い出した。
 そこで、私は冗談めかして訊ねてみた。
「もし僕が、アフガニスタンに一緒に行きませんかと誘ったら、行きますか」
 この頃、すでにアルカイダが権力をほぼ手中に収めかかっていたが、ジャララバードくらいまでなら行って行けないことはないように思えたからだ。
 それを聞くと、西川は一瞬考えるような眼つきになり、しばらくしてから言った。
「少し、遅すぎますね」
 だが、ほんの一瞬、アフガニスタン行きを本気で考えたことは確かなようだった。
「アフガニスタンに行ったのは、いつのことですか」
 西川がさらに訊ねてきた。
「一九七四年、僕が二十六歳のときでした」
 私が言うと、西川が意外な反応を示した。
「二十六歳……ですか。私が内蒙古を出発したのも、二十六歳のときでした」
 しかし、頭の中で計算すると、一九一八年(大正七年)生まれの西川が、一九四三年(昭和十八年)に出発したのだから、かりに誕生日が来ていたとしても二十五歳でしかないはずだった。
「二十五歳ではありませんか」
 私が確かめると、西川はきっぱりした口調で言った。
「いや、二十六歳でした」
 そのとき、彼が満年齢ではなく、数えの年齢で言っているのだということに気がついた。戦前に生まれた人にとっては、満年齢より数え齢の方が親しい年齢の数え方だということを思い出したのだ。そして、思った。そうか、西川も「二十六歳」のときに出発したのか、と。

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2

 それ以来、西川もたまに私に対して質問してくることがあり、いくらか二人のあいだの距離も縮まったかのように思えたりもした。実際、二人が飲む酒の量も、三合ずつから四合ずつになり、二合徳利をコンスタントに二本ずつもらうまでになった。
 話し込み、遅くなり、店の人に、そろそろ閉めたいので先に会計をしてもらえないかと言われる夜が続いた。

 そのように定期的に会うことを重ね、二度目の冬を迎えた。
 内蒙古を出発し、チベットを経て、インドを放浪し、ついには逮捕されて、日本に送還される。その足掛け八年に及ぶ旅の一部始終を、二度繰り返して聞かせてもらった。
 だが、いくつかの箇所で意外な発見があったものの、本質的なところで『秘境西域八年の潜行』を超えるような挿話は出てこなかった。
 もしかしたら、『秘境西域八年の潜行』を書くことで、あの旅の内実が西川の内部から消えてしまったのかもしれない、と思えなくもなかった。
 それは自分自身を振り返ればとてもよく理解できることでもあった。私は二十六歳のときの長い旅を『深夜特急』というタイトルの紀行文にまとめていた。以後、さまざまな機会に、その旅について訊ねられることになったが、自分でももどかしく感じるほど大した話ができないでいた。『深夜特急』を書き上げるまでは生々しく私の内部に存在していたあのときの旅が、本としてまとめられることによって希薄になってしまったような気がしてならなかった。西川も、『秘境西域八年の潜行』を書き上げてしまったことで、あの旅が体内から抜け出て、本の中にしか存在しなくなってしまっていたのかもしれない。
 そうと理解はしても、私はやはりインタヴューを重ねることで『秘境西域八年の潜行』には含まれていない新鮮な話が出てくることを望んでいたのだと思う。
 だが、出てこなかった。
 西川一三という、このな人物のことを書いてみたい。しかし、そうは思うものの、『秘境西域八年の潜行』という確固たる著作がある中で、どのように書けばいいかわからないという戸惑いが頂点にまで達してきた。
 一カ月考え、私は西川の描き方がわかるようになるまで、しばらくインタヴューを中断させてもらうことにした。
 盛岡に行き、二晩、気ままな雑談をしたあとで、来月からはしばらく盛岡に来るのを中断し、あらためて参上させていただきたいと私が告げると、西川は、どうしてと理由を訊かないまま、いいですよと言い、まったくいつもと変わらない様子で帰っていった。

 以後、気になりながら、私が盛岡に足を向けることはなかった。
 すぐにオリンピックやサッカーのワールドカップの取材があったり、アマゾンの奥地への旅や中国大陸を縦断する旅があったりして、瞬く間に歳月が過ぎていった。とりわけ、アマゾンの旅では、乗ったセスナ機が墜落するという事故に遭い、命に別状はなかったものの、床に投げ出され、全身打撲で体を傷めてしまうということもあったりした。
 ただ、中国大陸を百日ほどかけて縦断する旅では、可能なかぎり西川が歩いたところに立ち寄るように努めるというようなことはしていた。
 すっかり忘れ去っていたわけではないのだ。
 それでも、態勢を立て直してふたたび参上しますと盛岡訪問を中断してから十年余が過ぎてしまった。
 インタヴューを再開するタイミングがどうしても見つからなかった。タイミングというより、西川を描く、その書き方が発見できなかったのだ。
 しかし……。

 それは二〇〇八年(平成二十年)の冬の終わりのことだった。
 私は、二月の末に東南アジアからの比較的長い旅から帰ってきて、郵便物の整理をしていた。手紙類に眼を通したあと、寄贈された書籍と定期的に送られてくる雑誌類の整理に入った。
 封筒から月刊誌を取り出し、次に週刊誌を取り出した。
 一冊一冊、月刊誌や週刊誌のページをパラパラとめくり、気になった記事を読んでいるとき、「週刊新潮」の「墓碑銘」というページで手が止まった。
《中国西域に特命潜行 西川一三さんのとうくつ
 そのタイトルを見て、私は声こそ出さなかったものの、内心「あっ!」と叫んでいた。
 ――西川一三が死んでしまった……。
 記事にはこうあった。
《平成15年、85歳で副鼻腔癌になるまで仕事を続けた。昨年12月、心不全と肺炎で入院し、2月7日、89歳で逝去》
 私は心の片隅で西川をどのように書いたらいいのかと気にかけてはいたが、死ぬなどということはまったく考えていなかった。
 もちろん、私が会っていた当時すでに八十近かったのだから、十年が過ぎれば九十近くになる。いつ死んでも不思議はなかったのかもしれない。しかし、年齢は八十近くても、毎月会っていた西川は、老人というより、背筋の通った壮年の風格があった。さっそうとしていた。だから、西川と死を結びつけるなどということをまったくしたことがなかったのだ。
 だが、死んでしまったという。
 これで西川について書くことはできなくなった。
 諦めよう、と私は思った。
 しかし、書かせていただくつもりだと伝えておきながら途中で勝手に中断し、また参上しますと言っていた約束をにしてしまったという申し訳なさが残った。
 せめて墓前に線香でもそなえさせてもらおうか。しかし、死から一カ月近く過ぎてはいるけれど、遺族は何かと忙しいだろう。落ち着いた頃を見計らって連絡を取ってみることにしよう、と思った。
 とはいえ、ここまで遅くなっている以上、別に急ぐ必要はなかった。考えた末、中途半端なところで伺うより、来年の一周忌の前後に伺う方がいいのではないか。そう思うようになった私は、翌年の二月の末、一周忌の法事が終わっただろうと思われるタイミングで西川宅に電話をすることにした。
 そしてその二月がやって来た。お線香を上げるだけのために、わざわざ東京から出向くということになると大袈裟すぎるし、相手の心理的な負担も大きい。ついでに寄らせていただくというのがいいだろうと思えた。
 その頃、ちょうど取材のため秋田に行く用事があったので、すべてが終わった翌日に盛岡に寄り、線香を上げさせてもらって帰ることにした。
 電話をすると、夫人と思われる女性が、どうぞいらしてくださいと言ってくれた。
 ところが、秋田で取材を済ませると、その夜半から大雪になり、翌日は秋田新幹線をはじめ在来線も不通になってしまった。どのようにしても盛岡には行けそうもない。
 夫人に電話で事情を説明し、後日、あらためて伺わせていただきたいと告げた。
 頃合いを見て、半月後に電話をすると、今度は、夫人に、体調が悪くなってしまったのでまたの機会にしてほしいと言われてしまった。
 三カ月後、電話をすると、まだ具合がよくならないという。さらにその三カ月後にもう一度電話をしたが、返事は同じだった。
 私は自分の連絡先を告げ、よくなられたら連絡をいただけないかとお願いをした。
 だが、この時点で、縁がなかったのだろうと諦めることにした。西川一三との細い縁は切れたと思うことにしたのだ。
 そして、やはり、夫人からの電話はなかった。

 それからまた何年もの歳月が過ぎた。
 ある日、私はスポーツ・ノンフィクションの新しい短編集のラインナップを検討していた。すでに書いてある短編をどう編集し、どのようなタイトルをつけるか。
 対象となっているアスリートは、ボクサーのモハメッド・アリ、ジョージ・フォアマン、マイク・タイソン。スプリンターのボブ・ヘイズ、ジム・ハインズ、ベン・ジョンソン。クライマーのラインホルト・メスナー……などである。
 これらの短編の並べ方をあれこれ考えているうちに、ふと『超人たち』というタイトルが浮かんできた。
 悪くない。だが、そこに日本人がひとりも入っていないことが気になった。クライマーとしてはやまやすは「超人」の名にふさわしい。しかし、彼は、すでに『凍』という作品で描いてしまっている。
 そのとき、西川一三のことが頭に浮かんだ。クライマーでもアスリートでもないが、超人というなら、西川こそふさわしい。旅の過程で、実に七回もヒマラヤの峠を越えているのだ。これまで、長編で書くということしか考えてこなかったが、この短編集に収めるつもりなら短編でもいいことになる。そして、もし短編なら、『秘境西域八年の潜行』から離れ、自由に西川を描くことができるかもしれない。
 たとえば……。
 そうだ、あの西川は、一年のあいだ、まったくひとことも家族について話さなかった。
 そのとき、電話でしか言葉をかわしたことのない、西川の夫人のことが気になりはじめた。
 彼女は、なぜ西川と結婚したのか。彼女にとって、西川とはどんな人物だったのか。
 妻の眼から見た夫という存在は、『火宅の人』を遺した作家の檀一雄について、『檀』という作品で書いたことがある。それと同じ手法で書くつもりはなかったが、あの西川を、妻がどう見ていたかについては知りたかった。もしかしたら、それを突破口にして、西川についての短編を書くことができるかもしれない……。
 私はもう一度だけ電話をしてみることにした。

 電話を掛けると、夫人ではなく、もう少し若い声の女性が出て応対してくれた。西川の娘だということだった。
 私が名前を告げると、線香を上げるために訪問したいとの申し出を受けていることを母から聞いて知っているという。
 そこで、私は、線香を上げるだけでなく、夫人に西川について話をしてもらえないかと思っていると付け加えた。
 だが、娘によれば、母は乳癌の闘病中に大腿骨を骨折し、入院中であるという。お会いするのは無理だろうとも言う。そこにはもう先があまり長くないのでというニュアンスが含まれているように思えた。
 万事休す。もう少し早く気がつき、もう少し早く夫人に連絡をすればよかった。ついに、ついに、西川を書くということを完全に諦めるべきときがきたらしい。
 ところが、その数日後、西川の娘から電話が掛かってきた。
 母に話をしたところ、自分はもういつ死ぬかわからない。西川のことを訊きたいという方がいるのなら、妻として話しておくべきだろうと思う。病院でいいなら、いらしてくれれば話をしましょう、と言っている。どうしますか、というのだ。
 私は、すぐにでも伺いたいと応じた。
 そして、その二日後に盛岡に向かったのだ。

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3

 夫人の名はふさ子。電話で応対してくれた女性は一人娘のだった。
 ふさ子が入院していたのは盛岡市内の民間の病院であり、四人部屋だったので病室で話を聞くわけにはいかなかった。そこで、娘の由起が日曜日なら空いているという病院内の会議室を借りる手筈を整えておいてくれた。
 日曜の昼下がり、病院を訪ねると、玄関まで由起が出迎えてくれた。そして、私は病院の奥にある会議室に案内されることになったが、そこにはすでに車椅子に乗ったふさ子が待機してくれていた。
 ふさ子は一九二五年(大正十四年)生まれだというから、そのとき九十歳だったことになる。
 車椅子の上のふさ子は、たび重なる手術のあとということもあったのだろうが、体つきがとても小さくほっそりして見えた。あの大柄な西川と並ぶと身長にかなりの差があったのではないだろうか。
 私が最初の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、ついうっかり身長のことを訊ねると、ふさ子がきっぱりと言った。
「いえ、そんなにとんでもない差はありませんでした。わたしは中肉中背、女学生のときも列はいつも真ん中でした」
 外見はいかにも病中病後の弱々しい老女のように見えていたが、ひとたび口を開くと、話し方は明晰で覇気があった。
 いくらか耳が遠かったため質問を理解するまでに間があったり、同じことを繰り返して話すという傾向はあったものの、インタヴューを始めると、すぐに私が知りたいことを的をはずさず語ってくれることになった。

 ふさ子は、静岡県の富士郡、いまの富士市の出身で、農家に生まれた。旧制の富士高等女学校を卒業したあとの一時期、近くの学校で代用教員をしたが、幼い頃から体が弱かったこともあり、長続きしなかった。その後は、戦中から戦後へという混乱期だったこともあり、未婚のまま実家で暮らしていた。
 二十代の終わり頃、食べる物から体を改善しようと思い立ち、東京の代々木で桜沢さくらざわ如一ゆきかずという人物が主宰する真生活協同組合の本部に向かった。
 桜沢は戦前から食についての研究を続け、食べ物から健康にという「食養」の考え方に傾倒し、すべてを陰陽から説明する「無双原理」なるものを提唱するようになる。『食物だけで病気が癒る 新食養療法』はベストセラーになったという。
 戦後は、真生活協同組合を設立し、代々木の西原に置いた本部で、食養と無双原理を融合したマクロビオティックの普及に努めた。
 マクロビオティックとは、「一物全体」、「身土不二」、「陰陽調和」を三大理念として、肉や魚や乳製品を排し、砂糖や添加物を可能な限り遠ざけて食事を作るという、現代の徹底したヴィーガンの考え方の先駆ともなるものだった。
 真生活協同組合では、世界連邦運動やそのための新聞「世界連邦新聞」の発行をはじめ、マクロビオティックの普及のための講演会や勉強会を行い、マクロビオティック用の食材を仕入れて売ったりしていた。
 本部があったのはかつての国際フレンド会館というところで、三十くらいの部屋がある洋館だった。そこは、戦前、来日した外国人が長期に滞在することができるようにと建てられた国際親善を目的とする宿泊施設で、かつてブルーノ・タウト夫妻も利用したことがあるというところだった。それを戦後になって桜沢が借り受け、真生活協同組合の本部とした。
 真生活協同組合ではさまざまな活動が行われていたが、その中に「診療所」と呼ばれるものもあった。正規の医師もいて、食養の思想のもと健康的な食事を取り、体質を改善するために、個室に滞在するというものだった。
 ふさ子はその「診療所」の個室に何度かほんの短い期間入ったのだが、そこに食品販売に従事している長身で寡黙な男性がいた。
 それが西川だった。
 初めて言葉を交わしたとき、西川が、自分は野宿をしながら旅をしていたことがあると言っていたのがふさ子には印象に残った。二度目に言葉を交わしたとき、自分はその旅の記録を書いているという。本を読むことが好きだったふさ子が読ませてくれないかと言うと、ざら紙のような原稿用紙に書いた原稿の一部を見せてくれた。
 それは『密偵 西に消える』というタイトルの鉛筆書きの原稿だった。
 ふさ子には、内容はともかく、字が小さく、しかも鉛筆がこすれて読みにくくなっているのが気になった。もしこれが大事な原稿だとすると、いつか読めなくなってしまうという恐れがあるのではないか。
 そこで、咄嗟にこう言っていた。
「もしよければ、ペンで書き直してあげましょうか」
 すると、西川は喜んでお願いしたいと言った。気軽に引き受けたふさ子は、まさかそれが全部で三千枚以上もあるものだとは思いもしなかった……。

 私は、ふさ子に話を訊くため、盛岡の病院に三度ほど通うことになった。最初のときと同じく娘の由起が会議室を借りておいてくれたが、その二度目のときのことだった。
 その日は、由起が家から持ってきた家族写真を見せてくれることになっていた。
 机の上に広げられたその写真を見ながら、私は何の気なしに訊ねていた。西川さんの遺品はどうなっているんですかと。
 由起によれば、遺品と言えるようなものはほとんどないという。書物が少しと、インドから持ち帰ったラマ教の巡礼具がいくつかあるくらいだという。
「本の原稿も家にはなくて……」
 由起にそう言われて、初めて原稿のことが気になりはじめた。それまでは、原稿の存在について考えたこともなかった。私にとって『秘境西域八年の潜行』と言えば、全三巻の中公文庫版がすべてだったのだ。
 もちろん、最初に単行本として刊行されたのはよう書房からであるということは知っていた。だが、その芙蓉書房版は、原稿があまりにも長すぎるため大幅に削ってまず上下二巻で出され、その好評を受けて、削った部分を中心にして別巻が出されることになったらしい。中公文庫版は、それを原形に戻し、三巻で出すことになったと言われている。
 だから、私たちが読んでいる中公文庫版は原稿そのものであるはずだという思い込みがあった。
 しかし、あらためて考えてみると、中公文庫版の『秘境西域八年の潜行』にも、わかりにくい箇所がいくつもあった。その多くが、つながりの悪さに起因するものだった。あそこからここにどうしてこんなに簡単に移動できたのだろうかとか、そこについての説明があまりにも簡単すぎるのではないかとか感じていたことを思い出した。
 もしかしたら、中公文庫版も完全に元の原稿が復元されているというのではないのかもしれない……。
 元の原稿はどうなったのか。
 西川の家にないとすれば、たぶん今頃は散逸してしまっているに違いない。
 芙蓉書房から最初の版が出たのは一九六七年(昭和四十二年)、中央公論社(現・中央公論新社)から中公文庫版が出たのさえ一九九〇年(平成二年)である。出版社に残っている可能性は極めて低い。
 だが、盛岡から東京に戻った私は、いくつか調べてみることにした。
 まず、念のため、中央公論新社に原稿が残っていないか、在籍している知り合いの編集者に調べてもらったが、やはり、見つからなかった。同時に、どういういきさつで中央公論社で文庫化されたのかも調べてもらった。これも確かなことはわからなかった。無理もない。何十年も前の出版物なのだ。
 しかし、その文庫化を担当した編集者の名前はわかるという。そして、もう定年退職しているが、連絡先を教えることもできるという。
 私はありがたく住所と電話番号を教えてもらい、その元担当編集者に連絡を取ることにした。
 それは小林久子という女性の方だった。電話をすると、すぐに銀座で会ってくれることになった。住まいが「勝どき」のマンションだったからだ。
 銀座の喫茶店で向かい合った小林は、定年退職して何年にもなるとは思えないほど若々しかった。
 なぜ文庫化したのかという問いには、それはいわば社の方針に従っただけで自ら探し出して文庫化したものではなかった、という答えが返ってきた。
 中公文庫には、旅に関するノンフィクションの傑作、佳作を文庫化するという伝統があり、単なる旅行記だけでなく、冒険記や登山記や民族学的なフィールドワークに至るまでの旅の本が豊富に文庫化されている。『秘境西域八年の潜行』の文庫化もその流れの中のひとつであり、小林は与えられた仕事として文庫化を担当したというのだ。
 芙蓉書房版では、上下二巻にするため原稿が大幅にカットされていた。カットされた部分は、のちに別巻としてもう一冊出すときに多くを収録することができるようになったが、それでも本来の流れを断ち切っているため、読むとかなりぎくしゃくした感じを与えるものになっている。そこで、文庫化の方針は、別巻の部分を元に復し、本来の流れに近づけるというものにした。
 そのため、作業は、送られてきた生原稿を参照しつつ、上下二巻と別巻を合体させるということが主になり、西川とはさほど頻繁にやり取りが必要なことはなく、直接会ったのも数回程度だったという。ただ、一度だけ、京橋の中央公論社を訪れてくれたことがあり、その西川を東京駅に送りがてら、途中の居酒屋で軽く飲んだことがあるらしい。
 そのとき小林が受けた西川の印象は、ほどのよい酒飲みだなというものだった。
 私は、小林と西川の飲みっぷりについて語りあっているうちに、ふと、思いついて訊ねてみた。
「原稿はいつ返却されたんですか」
「返却してはいません」
 すると、出版社で処分してしまったということになる。
「廃棄されてしまったんですか?」
「いえ」
 返却もされず、廃棄もされていないという。しかし、出版社には残っていない。私は状況が掴めず、困惑しながら訊ねた。
「どういうことでしょう」
 すると、小林は驚くべきことを口にした。
「原稿は……あります」
「どこに、ですか」
「わたしの家に」
 私は言葉を失った。
 聞けば、文庫化の作業がすべて終わり、生原稿が用済みになった。小林がどのようにしたらよいか西川に電話で訊ねると、こちらも不要なのでそちらで勝手に処分してくださいという。
 それは廃棄してくれというニュアンスだったが、段ボール二箱に入ったその原稿を廃棄する勇気はなかった。何年もの汗の結晶なのだ。しかし、どうしていいかわからない。編集部の片隅に置いたまま歳月が過ぎてしまった。定年で退社する際、さまざまなものを廃棄処分したが、その二つの段ボールだけは処分しきれなかった。そのとき西川はすでに死んでいた。西川の遺族も、大部の古い原稿を送り返されても困るだけだろう。迷いながら、それを自宅に運んだ。さして広い家でもないのに、その二つの段ボールは場所ふさぎで困らないこともなかったが、そのままにされ、また何年もが過ぎている……。
 私はその話を聞いて、とんでもないぎょうこうが訪れたと思った。
「もし、遺族が了解してくれたら、その原稿を見せてもらうことはできますか」
「もちろんかまいません」
私は、小林と別れると、家に帰って盛岡の由起に電話をした。そして、小林に連絡し、原稿を私のところに送ることを了解した旨を伝えてくれないか、と頼んだ。

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4

 二週間後、ミカン箱より少し大きめの段ボール二つに入った『秘境西域八年の潜行』の生原稿が届いた。
 それは思わず呻き声を出してしまいそうになるほど圧倒的なものだった。
 確かに、いくら筆者に処分してくれてかまわないと言われたとしても、なかなか廃棄する勇気が湧いてこなかったのも無理はない。
 まず、その量の凄まじさということがあった。私もかつて原稿用紙にペンで書いていた時期に、書き下ろしの長編の原稿を五百枚ほど束ねるという経験があったが、そのときは一束にして机の上でトントンと耳を揃えるということが可能だった。ところが、三千二百枚の『秘境西域八年の潜行』の生原稿は、白いボール紙で表紙をつけられ、二十三もの束に綴じられていた。平均すればひとつの束が百四十枚程度ということになるが、戦後間もない頃の原稿用紙に書かれているため、紙の質が悪く、一枚一枚がざら紙のように分厚い。それを二つ折りにして綴じているため、一束でも『広辞苑』並の厚さがあるのだ。
 圧倒されたのは、その量だけではなかった。原稿用紙は、紙質の悪さからか濃い茶色に変色し、書かれてからの長い時間の経過が示されていた。しかも、その原稿用紙は、各所で余ったものを貰ってきたものらしく、片隅に「経済安定本部」とか、「資源委員会事務局」という文字が印刷されているものが少なくなかった。
 だが、なにより驚かされたのは、その原稿に、芙蓉書房の編集者の手によると思われる、おびただしい量の朱筆が入れられていたことである。句読点やようおんそくおんに指示の朱を入れるという通常の編集上の朱だけでなく、「やう」を「よう」に、「でせう」を「でしょう」にというような、旧仮名遣いを新仮名遣いにする朱や、旧字を新字にするというような朱が丹念に入れられている。そして、それ以上に眼を奪われたのは、文章をカットするための二重線や×印が無数に入れられていたことだった。
 ざっと見ただけでも、百カ所以上がカットされている。中公文庫版では大きくカットされたところを復元するという方針で編集したということだったが、細かいところではカットされたままのところが少なくないようだった。そして、そのカットされた部分に、わかりにくさを解消していくヒントが隠されていそうだった。

 その日以来、二千ページの文庫本と、三千二百枚の生原稿を突き合わせる作業が始まった。
 それによって、さまざまなことが新たにわかってきた。
 まず単純な誤植が明らかになった。
 たとえば、旅の最初のところで、西川と同行してくれる三人の蒙古人ラマ僧が登場してくる。その中のリーダー的な立場の中年のラマ僧は、出発する間際に、近くの漢人の集落から幼い男の子を「買い取り」、旅に連れていくことにする。確かに、当時の中国では、貧しい家の親が口減らしのために子供を売るということがよくあったらしい。だが、そのことについて触れた『秘境西域八年の潜行』の中に、弟として買った、という一文があり、なんとなく気に掛かっていた。男の子の年齢は九歳だという。中年の蒙古人が九歳の漢人を弟として買うとはどういうことなのだろうと。
 しかし、原稿で確かめると、そこには「弟」ではなく「弟子」という文字が記されていた。弟子ならわかる。妻帯の許されないラマ僧には、少年を弟子として育て、一人前のラマ僧に仕立てて、老後の自分の面倒を見てもらうという将来設計があるらしいからだ。
 もうひとつわかった単純なことは、原稿のかなりの部分が散逸しているということだった。
 なにより、冒頭の「はじめに」という章が丸ごと失われていた。
 原稿で調べると、次の「内蒙古篇」という章の最初の一枚の肩に「1」というノンブルが打たれているが、編集者の朱筆によって「21」と書き換えられている。つまり、冒頭の二十枚分が消えているということなのだ。
 それは、出版に際して、いきなり内蒙古のところから始めるのではなく、もう少し読者の興味を惹くようなイントロダクションがほしいという編集サイドの要求を容れ、西川が新たに書き加えた部分だと思われる。
 本来の原稿の束には入っていなかったため、時間の流れの中でどこかに消えてしまったということらしい。
 それ以外にも、失われている箇所がいくつもあった。
 芙蓉書房版では、二巻本にするため大幅にカットし、さらにその後に、カットした部分を集めてもう一冊を作るというアクロバティックな編集作業がされているため、その過程で散逸してしまった部分が少なくなかったらしいのだ。
 残念だが、それは諦めるより仕方がなかった。
 しかし、不完全であれ、生原稿が出てきたことで、大きく開けた問題があった。
 この『秘境西域八年の潜行』の微妙なわかりにくさのひとつにつながりの悪さがあったが、それは芙蓉書房版のときに細かくカットされたことによるものだということがわかったのだ。
 カットも、流れに直接関係のない情報やうんちくのような部分はいいのだが、単調な旅が繰り返されているようなところを無造作に縮めてしまっているため、地図を追って読んでいくと、どうしてここからここまで、こんなに少ない日数で移動できたのだろう、というようなところが出てきてしまっていたのだ。
 中公文庫版は、別巻として出された最後の一冊分を元の形に戻す努力は続けているが、芙蓉書房版で細かくカットされた部分はほとんど復元されていなかった。
 このカット部分を生原稿で参照することによって、疑問点のかなりの部分が明らかになってきたのだ。
 だが、『秘境西域八年の潜行』のわかりにくさのもうひとつの点として、微細すぎるため全体が見えにくくなっているということがあった。それは、旅のすべてが終わってしまった時点、すべてがわかってしまった地点から書かれているため、過程のドラマが見えてこないということによっていた。西川も、さまざまなことを徐々に知り、徐々に理解していったはずなのだ。それが描かれていないため旅の困難さが逆に希薄になってしまっている。
 しかし、中公文庫版の本文と生原稿の異同を確かめる作業をする中で、あらためて私が西川と交わした一年に及ぶ対話のテープの存在が大きな意味を持ちはじめた。
 その五十時間近いテープにおいて、私は旅の細部ではなく、そのときどのように思ったのか、どうしてそのような行動を取ったのか、といった心の動きを中心に訊ねていた。私は、すべてが終わり、すべてがわかったところからの視点ではなく、まだ何もわからず、何も経験していない、旅の初心者、新人のところから、徐々に経験し、徐々に理解し、徐々に逞しくなり、真の旅人になっていくプロセスが知りたかったのだ。
 私は、そのテープを、最初からあらためて聞き直してみた。
 そこには、当時の私が気がつかなかっただけで、実は西川の旅を深く理解するための鍵のような言葉がちりばめられていた。
 生原稿とテープの中の言葉。その二つを突き合わせることで、あの八年に及ぶ旅が立体的に見えてくるようになってきた。
 私は、そこから、ふたたび西川の長い旅を辿り返してみることにした。
 すると、『秘境西域八年の潜行』という鬱蒼とした森から、西川が辿った一本の細い路がくっきりと浮かび上がってきた。
 私は、その路を在るがままに叙することが、結局、西川一三という希有な旅人について述べる唯一の方法なのだと思い至ることになった……。

続きは本書でお楽しみください。