飯沢耕太郎氏推薦
水越のような筋金入りのナチュラリスト・写真家にとって、山はどんな意味を持ち、どんな風に見えているのだろうかと、彼の写真を見ながら想像を巡らしてみる。むろんそこは、センチメンタルな感情移入ができるような場所でも、安らぎや慰安をもたらしてくれる桃源郷でもない。そこに浮かび上がってくるのは、山中に在って、絶対的な孤独と隔たりの感覚を噛み締め、味わい尽くしている一人の男の姿だ。
(中略)
山をこのように文明社会の対極ともいえる「人間の手によって汚されていない」清浄無垢な空間と捉えるような視点は、その後の水越の写真にも一貫している。そこには、人間が自由にコントロールできるような余地はまったくない。雪と氷と岩だけの厳しい世界が目の届く限り広がり、烈風と寒気とが容赦なく襲いかかって、己の無力さを嫌という程思い知らされる。だからこそ、人々はその「太古から息づいている自然」に対して畏敬の念を抱き、時には神々の住まう崇高な場所として思い描いてきたのだろう。水越の写真には、そのような遥か昔から人々が山に対して抱き続けてきた強い思いが、溢れ出ているように思えてくるのだ。
そして、その祈りにも似た感情を的確に表現するために水越が選びとったのが、モノクローム写真だった。
(中略)
なぜ、モノクロームなのか。それは白と黒のグラデーションに還元された画面にこそ、あの「人間の手によって汚されていない自然」、「太古から息づいている自然」がより純化された形であらわれてくるからではないだろうか。その豊饒で深みのあるモノトーンの世界を前にすると、水越が山中で味わったはずの驚きと感動が、むろんそのほんの一部ではあるが、静かに沁み透るように伝わってくる気がする。田淵行男の下で写真を学びはじめてからちょうど50年という、記念すべき年に刊行される本書『真昼の星への旅』を、すべてモノクローム写真で構成した所に、水越の強い思い入れと覚悟を見ることができるのではないだろうか。
柳田國男は『遠野物語』の序文に「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と記した。この言葉はまさに「山の人」水越武にこそふさわしいものであるように思える。穂高連峰をはじめとする日本アルプスの山々を、取り憑かれたように撮影し続けた若き日の作品から、近作までを、モノクローム写真で辿り直すことができる本書の刊行を一つの区切りとして、さらに地球全体の生態系を視野におさめた、広がりと奥行きを備えた作品世界が形をとっていくはずだ。
(「山とモノクローム」本書解説より)