『解説』 ―― 大森 望  
 
 
 本書は一九九二年に刊行された、新鋭・井上夢人のデビュー長編である。
 
 ……というのはまちがいのない書誌学的事実であるにしても、周知のとおり
井上夢人は、八〇年代のミステリーシーンでつねにトップを走りつづけてきた
岡嶋二人の片方だったわけだから、当然そんじょそこらの新人とはわけがちが
う。デビューはデビューでも正確にはソロデビューというべきで、いってみれ
ば本書は、フリッパーズ・ギターを解散した小沢健二のファーストアルバム
「犬は吠えるがキャラヴァンは進む」に相当する。
 
"岡嶋二人"という国産ミステリー屈指のブランドネームを捨て、"井上夢人"と
いう新しい名前で一から出直す……この決断がまちがいではなかったことを証
明すると同時に、ミステリーの新たな可能性を切りひらく金字塔を打ち立てた
歴史的名作が、本書『ダレカガナカニイル…』なのである。

 と、つい大上段にふりかぶってしまうのは作品にパワーがありすぎるせいで、
じっさいこれだけの小説を前にしては解説もへったくれもない。もしあなたが
いままでに岡嶋二人の小説を一冊も読んだことがなく、井上夢人の名前さえ知
らずに人生を送ってきたとすればつくづく幸福である。本書冒頭の、医師と患
者のあいだで交わされる謎めいた会話に目を落とした瞬間から物語の中にひき
こまれ、最後のページを閉じてふと我にかえったあとは、いまは亡き岡嶋二人
の旧作を求めて書店をさすらいはじめることになる。岡嶋二人の解散がいまだ
に信じられないというあなたも、失ったもの以上に大きな財産が手に入ったこ
とを本書によって確認できるはずだ。ある意味で井上夢人は、岡嶋二人を越え
る稀有な作家なのだから。(なお、解説から先に文庫本を開くという悪癖をお
持ちの方も、悪いことはいわないからまず本文を読むことをくれぐれもおすす
めする。本書の場合、こんなろくでもない解説はもちろん、できることならカ
バー裏のストーリー紹介や帯の惹き文句さえ目に入れず、いきなり本文に接す
るのがベスト。この本を楽しむために、予備知識はいっさい必要ない)
 本題に入る前に、念のために伝記的事実をおさらいしておけば、岡嶋二人は、
一九八二年九月、第二十八回江戸川乱歩賞を受賞した長編『焦茶色のパステル
でデビュー。それから七年のあいだに二十三本の長編(ゲームブックとノンフ
ィクション各二冊を含む)と五十三本の短編を発表、ぜんぶで二十八冊の著書
を残している。井上泉(井上夢人)と徳山諄一(田奈純一)の合作ペンネーム
である岡嶋二人(”おかしなふたり”をもじつた冗談半分のネーミング)は、
島田荘司と並んで八〇年代の日本ミステリー界の先頭を走りつづけ、八九年に
惜しまれながら解散した。
 岡嶋二人の誕生から消滅までのいきさつは,井上夢人による自伝(?)的長
編エッセイ『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』(講談社)にくわしい。岡嶋フ
ァンならずとも必読の名著だが、合作の舞台裏を包み隠さず描き出していく過
程で相当数の岡嶋作品のネタを割っているため、全作品読破後でないと安心し
て読めないというのが唯一の欠点だろう。
 その『おかしな二人』は、コンビ解消後、週刊新潮に連載が決まっていた長
編の執筆をふたりのうちどちらが引き受けるかをマッチ棒のくじ引きで決める
場面で終わる。くじの結果、その長編を書くことになったのは井上夢人のほう
だった。
 
「僕が、書くことになっちゃったけど」
 言うと、徳山は笑ってうなずいた。
「よかったよ。それが一番いい結果だと思うよ」
 僕はなんとなく照れ臭かった。
 徳山も照れ臭そうに僕を見た。
「じゃあな」
「またね」
 改札の前で、僕と徳山は、右と左に分かれた。
 
 こうして井上夢人ひとりの手で書きはじめられた長編が、やがてこの『ダレ
カガナカニイル…』に結実することになる。このときくじを引き当てたのがも
し徳山諄一のほうだったら……と考えることにはおそらく意味がない。いずれ
にしても、『ダレカガナカニイル…』は井上夢人によって書かれていたはずだ。
岡嶋二人の長所――卓抜な人物描写、意表をつくストーリー展開、大仕掛けな
トリック――を残しつつも、過去の岡嶋作品群とは確実に色合いの違う、井上
夢人独自のシャープで個性的な長編。
『オール讀物』九二年三月号に載った短いインタビューの中で、著者は本書に
ついてこう語っている。
「岡嶋作品では、次々にいろんなことが起こるという"ヤマ"の多さで勝負して
いました。この小説では、中心にテーマがひとつあって、それを純粋培養する
ような格好で膨らましていく作り方になっている。ですから、テーマが自然増
殖していくのを待っている時間というのが、辛かったですね」
 その中心的テーマとは、タイトルに明示されているとおり、他者の意識の侵
入。何者かの意識がとつぜん心の中にとびこんできて、やがてしゃべりはじめ
る。ひとつの体にふたつの心……といえば、「ひとつの名前にふたりの作者」
で書きつづけてきた岡嶋二人のコンビ解消後第一作としてはいかにも暗示的だ
が(本書の原型にあたる週刊新潮連載の長編は、そのものずばり「ふたりは一
人」というタイトルだった)、このテーマ自体、ジャンルSFの世界ではむし
ろ古典的なものだといっていい。映画『ヒドゥン』や大原まり子の『エイリア
ン刑事』につながるハル・クレメントのクラシック『十億の針』を代表格に、
自分の体に入り込んだ他者の意識との対話をモチーフとする作品は枚挙にいと
まがないほど。しかし、一読すればわかるとおり、『ダレカガナカニイル…』
はその種のSF作品とはアプローチの方法がまったくちがう。いかに破天荒な
設定であろうと、本書は結末に向かって収束すべく細部まで緻密に計算された
端正な謎解きミステリーなのである。
 
 モダンホラー・ブーム以降、エンターティンメント小説の世界ではジャンル
ミックスがひとつの潮流をなしている。SFの世界でも国際謀略小説やパニッ
ク物のベストセラー小説作法を導入したタイプの小説が増えているし、マイク
ル・クライトンの諸作を筆頭に、ひとつのジャンルの枠におさまりきれない小
説は無数にある。
 一方、日本では、ミステリー系の作家たちが意欧的にジャンルSFの手法を
採用している。アイザック・アシモフの『鋼鉄都市』『裸の太陽』の昔から、
SFミステリーと呼ばれる作品はたくさん書かれてきたのだが、成功している
ものは数えるほど。それに対して、このところ日本では続々とSFとミステリ
ーの境界に位置する傑作が誕生している。宮部みゆき『龍は眠る』、綾辻行人
『殺人鬼』『殺人鬼II』、山口雅也『キッド・ピストルズの冒涜』、麻耶雄嵩
『夏と冬の奏鳴曲』、小野不由美『東亰異聞』……この潮流の嚆矢となったの
が、岡嶋二人最後の作品『クラインの壺』だろう。
 パーソナルコンピュータを駆使する手口の描写がスリリングな『99%の誘拐
や、ゲームブックという新しい小説形式に正面からチャレンジした『ツァラト
ゥストラの翼
』、核シェルターという限定状況に舞台を設定した『そして扉が
閉ざされた
』などを見ればわかるとおり、岡嶋二人は日本のミステリー作家に
は珍しく、新しいテクノロジーやスタイルに真っ先にとりくみ、数々の名作を
うみだしてきた。そして、その華麗なキャリアの掉尾を飾る『クラインの壺
は、いまから五年以上前、八九年の時点ですでにヴァーチャル・リアリティを
扱った小説の決定版を書いていたという驚くべき先見性をべつにしても、フィ
リップ・K・ディック的な現実崩壊のモチーフをミステリーの土壌でみごとに
開花させたSFミステリーだった。その核心をなすアイデアは、"岡嶋二人"の
デビュー以前から井上夢人があたためていたものだという。
 前述『おかしな二人』の中で、井上夢人は共作者・徳山諄一と自分自身のち
がいについてくりかえし説明する。
「小説の発想法にしても、アイデアの転がし方にしても、僕と徳山はほとんど
正反対と言えるぐらい違っている。徳山の思考は面的であり空間配置的。僕は、
線的で時間配置的な思考をする。徳山は具体的なものから発想し、僕は抽象的
なところから発想を開始する」
 そのふたりが合作した岡嶋二人がオカズの多さで勝負するタイプの作家だっ
たとすれば、井上夢人はシンプルなコンセプトをいかに磨き上げるかで勝負す
る。『クラインの壺』は、アイデアからフィニッシュまで、井上夢人ひとりの
手によって完成されたものだったらしいが、内容的に見てもきわめて井上夢人
的な作品であることはまちがいない。
 そして、『クラインの壺』から三年の歳月を経て、名実ともに井上夢人のソ
ロデビュー作として発表された『ダレカガナカニイル…』は、『クラインの壺
の延長線上に位置しながら、井上夢人の作家性が百パーセント開花した完璧な
長編である。
〈新潮ミステリー倶楽部〉というミステリー専門の器の中で、新興宗教や意識
の転移というオカルティックなモチーフをあえて扱うこと。ジャンルの枠をあ
っさり踏み越えながら、なおかつうるさがたの本格ミステリー読者さえ力でね
じふせ、納得させてしまうこと。その手腕はほとんどアクロバティックな神技
の域に達している。著者いわく、
「ミステリーには、たとえば解決法ひとつとっても、いろんな制約があるけれ
ども、そういうものを自分なりに見直してみたいという気持ちがありました。
今まで好ましくないとされている方法でも、書き方によってはミステリーにな
りうるのではないだろうか、と。ひとりになったんだから、今まで出来なかっ
たことを、いろいろやってみるつもりです」(前出『オール讀物』より)
 かつて"本格"論争がミステリー界をにぎわした当時、"無格"という概念を打
ちだした井上夢人らしい発言だが、たしかに『ダレカガナカニイル…』のよう
なミステリーを前にすると、本格も変格もないだろうという気がしてくる。ノ
ックスの十戒に代表される謎解きミステリーの約束事を逆手にとり、「ミステ
リーではありえない材料」から「ミステリーでしかありえない製品」をつくり
だすこと。井上夢人のおそるべき企みは、『ダレカガナカニイル…』によって
奇蹟のような成功を収めている。
 否応なく心の中にとびこんできた他人の意識。記憶を失って戸惑うその意識
と主人公の"僕"との対話はほとんどシチュエーション・コメディのようなおか
しさで、やがてもうひとりの女性も巻き込んで展開される名場面は、カール・
ライナー監督の『オール・オブ・ミー』をはじめとするハリウッド喜劇を髣髴
とさせるほどなのだが、その先にまさかこんな衝撃のクライマックスが待ちか
まえていようとは。
 驚天動地のこの結末によって、本書は一気に、世界的にも類例を見ないタイ
プの×××××××SFに変貌する。たいていのことには驚かない海千山千の
SF読者を自認するこの僕も、これには仰天した。わずか数ページで、それま
で語りつづけられた物語の意味ががらりと一変するこの感覚。それは、SFの
世界でセンス・オブ・ワンダーと形容される認識異化作用の最良の例であると
同時に、謎解きミステリーとしての構造をこれ以上ないかたちで完成させ、さ
らに哀切きわまりないラブストーリーとして物語に幕を引くものでもある。本
書を読み終えた瞬間、岡嶋時代の終わりが新しい時代のはじまりを告げるもの
だったことを僕は確信した。
 本書につづいて、井上夢人は凝りに凝った逸品ぞろいの恐怖小説集『あくむ
(集英社)、解説はおろかストーリー紹介さえ不可能に近いという書評家泣か
せの異色長編『プラスティック』(双葉社)を発表。現在は『小説すばる』に、
コンピュータ・ウイルスをモチーフとする長編『パワー・オフ』を連載してい
る。岡嶋二人の八〇年代につづく、井上夢人の九〇年代はまだ幕を開けたばか
り。お楽しみはこれからだ。
 
(平成六年十二月、文芸評論家)